レインウォッチャー

ボーはおそれているのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

ボーはおそれている(2023年製作の映画)
4.0
四捨五入すると『ヘレディタリー "2" 』。

表現方法は異なるようで、同じことを逆サイから語ってるのだと受け取った。そして『 "2" 』らしく、ボーは、アリ・アスターは、いやわたしたち《男》は、一歩成長した…のか、も?

まずは「なんで2やねん」から始めよう。

ジャンル分けすればホラーと呼んで少なくとも苦情は来ないであろう『ヘレディタリー』に対して、今作は…なんじゃこれ。一単語ならコメディと呼ぶほかないけれど、情報量圧殺型豪華夢&地獄巡り青春帰省ロードムービー神話コラージュ、と言うこともできるし、言わないこともできる。要するに、表面上は異なるタイプの映画に見える。

母の死を知って実家に帰ろうと試みるボー(J・フェニックス)が体験する破廉恥で乱痴気な珍道中の光景は、果たしてそれが彼の病んだ心に映った心象風景なのか、薬の副作用による幻覚なのか(バッド・"トリップ"とはよく言ったものだ)、夢なのか現実のファンタジー(現実のファンタジー?)なのか、本筋か劇中劇か、そもそも今は昼か夜か今か昔か、境界がぬるずると溶けていって最早わからない。

ああ、なんてめんどくさくて楽しいのかしら。「さまよって帰れない映画」好事家としては最高。

しかし、思い返せば『へレディタリー』も妄想かオカルトかをイヤラシイ振れ幅で行ったり来たりする映画だったわけで、発想としてはそのハイパー拡張重戯画版と捉えることもできるだろう。細部のパーツパーツを見ても、『へレディタリー』(『ミッドサマー』も)が進研ゼミとして機能するネタは多い。(※1)

そして何より、今作が3時間も遠回りの回り道を繰り返して到達する先は、やはり「支配的な母権に対する恐怖」なのである。
この旅が一部でもボーの心象なのであれば、帰省を次々と阻む様々な障害は彼自身の「かえりたくない」「あとまわしにしたい」という潜在意識の表れに他ならない。バスタブからエクソダスして大海に漕ぎ出したように思えても、そこは未だに羊水の中なのか。

『へレディタリー』の発端となったゴッドマザー・エレンの存在と死と呪いの継承、娘アニーとその息子ピーターとの対話は、すべて今作でも変奏される。アニーがピーターに対して口走った「産むつもりなんてなかった」という言葉は、どちらかといえば過干渉に思える今作のボーの母親とは対照的に見えるけれど、実は表裏一体だ。そこには、結局のところ子供の生命の存在は親の支配下にある、という原理原則が共通しているからだ。

さて、はじめにわたしは「一歩成長した」と書いたのだけれど、ここで言い換えるなら「視野が広がった」だろうか。
『へレディタリー』では、わざわざイピゲネイアを引き合いに出したりもして親から子への加害性の矢印のほうが強調されていたと思うのだけれど、今作では親側の言い分にもスポットが当てられている。前作でアニーが口籠ったその先の現実、本音に、今作のボーは直面することになる。要するに、より《フェア》なのだ。

現実でもフィクションでもヴィラン(≒犯罪者)を形成するベースとして「過去の家庭環境が〜」とか時候の挨拶レベルで言われるようになって久しく、毒親とか親ガチャなんてワードが跋扈する昨今であるけれど、八方から刺されるのを覚悟でぶっちゃければ親からすれば子供だって十分すぎるほどガチャだ。

遺伝的要因は子の性質を大きく左右する一方、両親だけで決まるものではなく、出生前に制御できない(少なくとも現代は)以上、どこまでいってもお互いガチャに変わりはない。そこには、愛情の有無とか、望んだ出産だったかどうかとかは関係ない。
子供は、生物に備わった機能と社会の要請の組み合わせによって作られ、他者(=別個体)から生まれた他者が他者によって育てられる。「どうして "ぼく" は生まれてきたの?」に対する答えを、人類は未だ持ってなんかいない。

…し、実は持つ必要もないのかもしれないのだけれど、その矛盾に耐えられるほどヒトは強くないし小賢しくなりすぎたので、家族とか母性・父性とかいうフィクションスイーツを後から作り出した。ソシャゲのメンテパッチみたいなものだ。
無意識に他責思考に慣れきっているボー(というか現代の多くの人々)は、ゲームの運営に文句のクソリプを打ちつつ、このパッチ待ちをしているだけといえる。

そんな試行錯誤の一端として生まれ、なんとか取り敢えずゲームのパフォーマンスを安定させたのが家父長制だったりもする。この10年ほどでその負の側面を取り上げる映画は多く作られているけれど、父権社会は母権崇拝(畏怖)への裏返しでもある。母なくして子は産まれ得ないわけで、その母権を力という名の虚勢で表面上コントロール(独占・制御・管理、と訳してもよい)しようとして成り立ったのがいわゆる近代社会の基本構造といえるからだ。

アリ・アスターの映画は、『ヘレディタリー』も『ミッドサマー』もそして今作でも、結果的にこの母権崇拝に立ち戻っている。それはともすれば時代の潮流からズレているように見えて、実はとても的を射ているといえるだろう。

『バービー』や『哀れなる者たち』で女性たちがどんどん「次へ」向かう中、ボー=男はずっと母が…つまり女が怖く(※2)、終わらないマザコンから抜け出ることができない。これをインセルとかチー牛的発想と片付けるのは簡単だけれど、この映画が見せる「だってそうじゃん」を否定しきれないのも確かではないだろうか。
わたしとしてはこれを《誠実》と呼んでみたいし、「正直まだこの辺が限界っす」に共感もする。そうだよな、お外もお家もこわいよな。

では、ボーと彼の母親との確執の先にあるのは虚無と絶望なのか…といえば、そうは思わない。相手が期待通りに動いてくれないのが理解ったのなら、共に傷ついてから前向きに諦めれば良いのだ。

ここでもし、僭越ながらボーへひとつ助言できることがあるとすれば、「エルトン・ジョン聴こうぜ」となる。よければ、一緒に。

ボーが迷い込む劇中劇の世界(※3)、鎖から解放された男は、天使の導きに従い、自己実現を目指して歩き出す。その道は、どうやら《黄色いレンガの道》だ。
この出自は『オズの魔法使い』だと思う。主人公ドロシーが歩く道で、輝かしいエメラルドシティに続いている。しかし劇中劇を経てもなお、男は(ボーは)目的地に辿り着かず、元いた森の劇場に戻ってきてしまう。

エルトン・ジョンにもこの題材を扱ったヒット曲、『Goodbye Yellow Brick Road』がある。しかし、Goodbyeとあるように、彼は曲の中で《黄色いレンガの道》を否定している。それは他者によって用意された「敷かれたレール」だからである。
劇中劇で語られる男の紆余曲折ながらステレオタイプ的ともいえる一生の筋書きや、ボーが辿る実家への道もまた、いかにシリアスでそれらしく見えても結局は親子は・男女は・人と愛はかくあるべしという《黄色いレンガの道》だ。

アリ・アスターは、長編3作目となる今作でデトックスを終え、エルトンよろしく《黄色いレンガの道》からコースアウトする勇気を見つけたのだろうか…?そんな意味でも、既にJ・フェニックスと作り始めているときく新作が楽しみ。彼の歩調なら、無理のないペースで歩けそうな気がするから。

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今作の感想をぜひ訊いてみたい人第一位はマライア・キャリー以外に考えられない。

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※1:あげ出すとキリがないレベルなので省略するけれど、一番は《屋根裏》だろうか。真実を潜ませる場所として、多くの作品では地下など《下》を選ぶのに対し、アリ・アスター映画では《上》。頭を圧迫する見えないプレッシャー、支配力の存在に意識的ゆえなのかもしれない。

※2:今作でボーが刷り込まれた呪い、「射したら死ぬ」はまさにこれだし、中盤のギャルたちから受ける圧とかもそう。ボーは人々(主に男たち)の受難を代理で受け続ける旅人なのかもしれない。序盤で変態殺人鬼に刺された箇所はキリストっぽかったし。

※3:『オオカミの家』コンビが担当するこのパートは間違いなく今作の白眉。幻想と不穏、アニメと実写の交錯にうっとり、ここだけで余裕で一本作れるじゃあねーか。