1996年4月にオーストラリアのタスマニア島で無差別銃乱射事件が勃発、そんなことがあったことなど過去の記憶からすっかり忘れて、僕はこの映画を見始めた。前情報まったくなしで何となくぼんやり見始めたが、冒頭、主人公マーティンが子供時代に花火で火傷をしたときのインタビュー動画での強い訛りからオーストラリアが舞台だと分かり、主人公マーティンが出会う運命の女ヘレンがタスマニア宝くじのスポンサーで大金を稼いでいるということから舞台がタスマニアだと分かる。1996年、オーストラリア、タスマニア……それが映画全体を覆う行き場のない陰鬱でどんづまりの絶望と重なり合ったとき、はっとして背筋がぞっとした。あ。これ、あの事件の話だ、と。この事件は至って個人的な理由で僕の人生のなかで最も印象的な事件である。にも関わらずなぜいままで忘却していたのか。それを思い出させたというそれだけで、本作は僕にとって忘れられない映画となるだろう。主人公のマーティンは、幼い頃から社会に適応することができず、大人になって無職の今でも打ち上げ花火に夢中で、家の庭で毎晩騒音をたてているため、隣人はマーティンに怒鳴り声をあげている。近所の小学校でも花火で騒ぎを起こし、同級生の教師に、やめてくれ!と怒鳴りつけられる。両親はそんなマーティンの行動にほとんど口出ししない。口出ししても無駄なのだ。マーティンはずっとこんな調子で、何とかしようと試みた時期もあったけど、どうしようもないからやめてしまった。ひと目で見てとれるほどに、父には底なしの無力感が表れ、母には毒を帯びた冷たい諦観がにじみ出ている。マーティンを心療内科に連れていく母は、うつ病の薬を処方してください、と。医師は、それはあなたのためですか、それともマーティンのため?と問う。みんなのためです、と答える。マーティンには友達もいない。幼い頃から同級生にMartinを逆さ読みにしたあだ名Nitramと呼ばれバカにされてきた。よって社会とのつながりはなく、家族3人で絶望の淵ぎりぎりのところで暮らしていた。彼らに残されたたった一つの希望は、父が細々と貯めてきたお金で、観光地の近くの民宿を買い、B&Bを経営することだった。マーティンはサーフィンをしたいという願望があり、ボードを買う金を稼ぐため、芝刈り機を引きずりながら、一軒一軒、周囲の家を訪問していく。そんななかで出会うのが運命のヘレンだ。おそらくは母親に近い年齢のヘレンも、社会から隔絶した生活を送っており、薄汚れ散らかった邸宅で、ボロボロの姿で生活している。マーティンと仲良くなり始めると、彼に車を買ってやり、一緒に住まわせてやり、まるで幼い子どものように、性的関係なく、ともだちとしてマーティンを受け入れてくれる。はじめて尊厳ある人間的関係を手に入れたマーティンは、ひととき親から独立した喜びの生活を送るが、マーティンの多動症のためそれすらもあまりにも悲劇的な結末を迎えてしまう……ここからの映画全体の抑圧的なムードはあまりにもダウナーで、人によっては気分が悪くなると思うけど、僕はその明晰な映像と、淡々とした面白さ、そして、俳優たちのずば抜けて素晴らしい演技によって、ひとときも目が離せなかった。母を演じてる女優の、幼児期の息子に対する愛おしい気持ちを忘れられないがゆえに、辛辣に絶望しつつも息子を見限ることができない、しかし冷たい不感症で自分を防護しているような、到底言葉では言い表せない絶妙なデタッチメントがすばらしいな、しかも、僕の大好きな女優ジュディ デイヴィスにすごく似てるな、と思ったら、エンドクレジットにてジュディ デイヴィスと分かりました笑 まるで近代の前衛アートのような、顔面に寄る辺ない高尚さを漂わせるヘレンを演じるのは、こりゃ誰だ、どっかで見たことあるなーと思ってたら、僕の大好きな『ババドック』の主演女優さんではないか。そして、マーティンを演じるケイレブ ランドリー ジョーンズ……社会にまったく適合できないことからくる不安的さのなかに閃く破壊的な衝動性を見事に演じつつ、さらに、彼なりの歩み寄り、喜び、悲しみ、悔しみ、受け入れられない苦しみ、そして、だれも宿すことのできない純粋さにきらめく瞳などを次々に見せてくれる、そのあまりにもマーティンそのものの演技に圧倒されました。すげー。すごすぎる。あと、もう後戻りのできない無力のどん底の絶望に突き落とされるお父さんを演じるアンソニー ラパリア……痛々しすぎて見てるのがもっともつらい人物だった。本作を見ながら、僕のあたまのなかをずっと駆け巡っていたのが、マーティンを最後の行動に走らせてしまった原因は何なのだろうか、ということ。本作を見ると、単純にマーティンだけを悪として責めることは決してできない。マーティンという生命体に宿る生来の傾向性が、彼をとりまく環境との可視・不可視双方の絶え間ないインターアクションによって、彼の運命として、彼の道筋を強制していったのだ。もし仮に、彼や彼の家族をありのままの人間として包摂できるだけの人間性の広がりと柔軟性と助け合いの精神を、彼らを取り巻く環境や社会が持ち得ていたとして、果たしてこのような事件が起こっただろうか。僕はそうは思わない。彼のような人物を爪はじきにする社会そのもの自体が病理であり、運悪くそこに居合わせた数人の人々が、社会全体の狭量さの被害者になっているように僕には見えた。だれも受け入れないだれでもない人々が、だれでもいいからだれでもない人々を殺害した。被害者は個人個人としては、多くがほんとうになんら罪のない人々であることだろう。しかし、排他や不寛容や排他という個人からうっすら発せられる業が、社会全体の目には見えないどこかにわだかまって蓄積し、それが一気に凝縮して、ある事件に関係する人々に雪崩のように襲い掛かって業を報復する。僕は、本作を見ていて、この映画に出て来る人々以上に、出てこない人々、一般の人々の様子が思い浮かんできました。我々が社会全体として、他者に対して、真に愛や慈悲や善を表しながら行動できるようになった暁にこそ、こういったあまりにも恐ろしい悲劇の連鎖を止められるのだろうと思いました。こういう事件は、戦争やいじめや差別や排他性が存在するかぎり、決してなくなることはない。我々一人一人が人間として人間性を成熟させ、そして、またひとり、またひとりと、成熟していけるように人々を導いていく。そういうところにしか道はないんだろうな、と深く感じました。本当に意義深い、示唆に富んだ、すばらしい作品でした。ただ考えさせる重い映画ってだけでなく、スリリングやし、ドキドキするし、ちゃんと娯楽要素もある。これはまたぜひとも見直したいし、人々にも勧めていきたいと思います。