社会のダストダス

カールと共にの社会のダストダスのレビュー・感想・評価

カールと共に(2021年製作の映画)
3.2
Je Suis Karl 私はカールです。

原題であり、作中でも連呼されるこの言葉。ドイツ語の女神(内定)であるルナ・ヴェドラー(以下ルナちゃん)主演なのでドイツ語の言葉だと思っていたら、フランス語なのか。
フランス人に自己紹介する時は、Je Suis Dustdus de Sociétéと言えば、向こうには「私は社会のダストダス(クズ)です」として伝わる訳か、一生使う場面が無いことを祈ろう。

Netflixオリジナル作品。Netflixのドラマ「バイオハッカーズ」にも主演しているルナ・ヴェドラーが主演。通常なら日本で公開されないような映画、良くても1年後とかに目にすることになるであろう作品を、オリジナル作品として世界同時配信してくれる寝と振りさんには足を向けて寝られない。

しかしながら、現時点でフィルマークスにサムネ画像が設定されておらず、両手で数えられるレビューしか上がっていないとは何とも嘆かわしいことよ。娯楽作品とはいいがたい内容だし、注目度の低さは如何ともしがたいか。

おかげさまで目にする機会が多くなった「ブルー・マインド」のブレイクスター、ルナちゃん。本作もそんなルナちゃんのPVみたいな映画を期待していたら少し毛色の違う作品だった、まあ当然と言えば当然だが、何を期待してたんだ私は。
ジャンルとしては社会派サスペンスだが、そんなことは気にせずルナちゃんの可愛さを宣伝するレビューにしようと思う。

爆弾テロにより母親と弟二人を亡くしてしまったマキシ(ルナちゃん)、深い喪失ので出会った男カール(ヤニス・ニーヴナー)と行動を共にする中で、自らの家族を奪ったテロ組織の活動に知らず知らずに引き込まれていく。

マキシが冒頭から身に着けていたワイヤレスヘッドホン。爆破テロの一件以来は周囲の視線、雑踏がすべて不快に感じるのか、それらを遮断するために身に着けているように見える。マスコミからの質問攻めに遭っているところを助けてくれたカールという男と知り合うマキシ。かなり序盤に明かされるので別にネタバレではないと思うが、このカールがマキシの家族を奪った爆破テロの実行犯。宅配業者を装った彼の荷物をマキシの父親が偶然受け取り家に置いたことでマキシと父親を除く一家が犠牲となる。

カールが所属する組織は移民排斥運動を主としヨーロッパ再生をSNSや集会などを通じて若者たちに呼びかける過激派集団。テロをISISなどイスラム過激派の仕業とする報道が占めるのを見つめるカールの様子から、100%彼の意図した結果にはならなかったのか、被害者遺族であるマキシを組織の活動に引き込んでいく。

マキシが家族を失ってから、過激派組織の広告塔になってしまうまでが描かれるのに対し、カールは爆弾テロまでを犯すようになった動機や覚悟があまり描かれていないように感じ、終盤の彼の決断やその影響がかなり突飛に映った。

さて、そろそろ我慢できなくなってきたので本作のルナちゃんのCuポイントを書かなければなるまい。

父親に煙草の臭いを指摘され「汗の臭いよ!」とワキガを嗅がせてくるルナちゃん、そのしぐさの愛くるしさに冒頭から死んだ、1万ルナポイント(LP)。

組織の主要メンバーがすぐ近くでテロ事件のことや今後の計画など割と重要な会話をしているのに、ヘッドホンをしながらタイピングに集中していて見事に何も聞いていないルナちゃん。でも可愛い、5万LP。

ライブハウスで踊り狂いながらカールの腕に甘噛みするルナちゃん、いちいち可愛い、10万LP。その後、アイマスクをしながらご機嫌ハイテンションで、楽屋のカールのもとに来るが、ここでも重要な会話をニアミスする、タイミングが良いのか悪いのか。

ストラスブールでのスピーチで自らのテロ事件の実体験を語るルナちゃん、犯人はすぐ近くにいるとも知らずに…。しかし、話の内容云々より着ているパーカーのパツパツさ加減が気になってしまった、カジュアルな服装でも破壊力高い、50万LP。

カールの組織が主催するサマー・アカデミーで見せた英語での受け答えやフランス語もイケる口であることをアピールのルナちゃん、これは役者としての世界進出を狙っておるな、良いぞ!羽ばたけ!!世界へ!!!100万LP。

おお、終わってみればルナちゃん的にもなかなか撮れ高が高い作品ではないか。正直ドラマ展開に置いてはクエスチョンマークが浮かぶシーンも結構多かったのだが、節々のルナちゃんCuオーラに上書きされていくので、総合的にはまずまずの満足度の作品になった。

ルナちゃんの聞いていないところでカール達は終盤の計画を全部喋ってくれていて、本当にその通りの展開になるためサスペンスとしては驚きも減ったくれもないけど、終盤の混沌が洒落じゃなく本当に起こるかもしれないという問題を提起しているということが私のようなスケベにも伝わったのなら、この映画にはその価値があったということではないだろうか。