イオセリアーニの映画を観て衝撃を受けないことはないが、本作はなんというか…あのラストの壮大な皮肉よ。日本人を嫌いというより、バブル期の日本人が当時欧米各地でおこなった買収が余程ショックだったのではと想像される。黄色いサルごときに尊い伝統と文化を蹂躙された、という潜在的な怒りが少なからずあるのではないか。それは勿論イオセリアーニに限った話ではないだろう。まあ本作公開後早晩に日本経済は瓦解したのだけど。
古城の持ち主である老婦人とその従姉妹は、インドかぶれみたいな弁髪白人のベジタリアン集団や謎の「マハラジャ」は受け入れて、日本人ビジネスマンを受け入れない。その違いは金銭や資本が絡むかどうかで、城の敷地や城のある村は老婦人らの内世界として循環し、ベジタリアン集団やマハラジャは異国情緒を漂わせる無害なエッセンス(悪意のある言い方をすれば鑑賞物)といえる。
老婦人らはラジオを通じて、欧州各地の爆破テロやイラン・イラク戦争での国連軍の戦死報道などを耳にし、それらは隔絶した外世界として存在する。公証人と骨董商が頻繁に古城へ出入りしており、彼女らの生活を脅かしてはいないようでいて、資本として少しずつ剥ぎ取っている。息子?のパートナーらしき黒人女性も城の中のものをくすねたりする。
彼の作品でたびたび扱われる侵略と収奪が、ここでは日本人ビジネスマンと、老婦人から遺産相続した妹の娘によって決定的に行われることになる。それはとりもなおさず伝統的貴族文化の終焉となる。あっさりと城を去った老婦人の従姉妹が、ラジオの中だけのものだった外世界との接点を得たのが爆破テロ、といういつもながら過激な顛末。
カラヴァッジォのような濃い陰影の食卓ショットが美しい。その奥にアル中の神父がつぶれててこれがまたドーミエの酔っ払いのよう。またイオセリアーニ本人が将校の姿をした亡霊役として出てくる。フォロワーの方も指摘されていたとおり『霊魂の不滅』を思い出させる多重露光でなんとも味わい深く、老婦人の死への導き、駆ける馬のスローモーション、この連なりがとてもよかった。
ノスタルジックに肯定的に表されているかのような貴族文化と、新自由主義的な収奪の双方に介在するのが小間使いの女性で(というか生活のためにはそうせざるを得ない)、貴族文化そのものも侵略と収奪の循環でしかないことを示す。そこに残る風の音が虚しい。