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アルプスの少女ハイジのkkkのk太郎のネタバレレビュー・内容・結末

アルプスの少女ハイジ(1974年製作のアニメ)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

アルプスに住む祖父の元へ身を寄せることになったみなしごハイジの、雄大な自然での暮らしと人々との出会いを描いたヒューマン・ドラマ。

総監督を務めるのは『太陽の王子 ホルスの大冒険』『パンダコパンダ』シリーズの、後に世界を代表するアニメ監督となる高畑勲。

場面設定/画面構成を担当したのは『パンダコパンダ』シリーズで脚本を担当した、後に高畑勲と並び世界を代表するアニメ監督となる宮崎駿。

今や知らぬ人はいないであろう国民的TVアニメ『アルプスの少女ハイジ』。
しかし、実は全話を通して観たことのある人ってかなり少ないのではないだろうか?
自分もそういう人間の一人だったのだが、ついに全話観賞してみました!いやー、長かった💦

実は本作、宮崎駿にとってかなり思い入れが強い作品のようで、自書の中で「ぼくらはいい仕事をしたと、今でも誇りに思っています。」(『本へのとびら ー岩波少年文庫を語る』,2012)と述べているし、高畑勲の作品で一番好きなものは何か?という質問に対しても本作を挙げている。

高畑勲は本作について"「天の時、地の利、人の和」、この3つがすべて揃った」"と述べており、それを受けて宮崎駿は「一生涯に一度あるかないかのことですよ。」と答えている(『天才の思考 高畑 勲と宮崎 駿』,2019)。

本作の制作の中心にいたのは、監督・高畑勲、レイアウト・宮崎駿、キャラクターデザイン/作画監督・小田部羊一の3人。
高畑&宮崎コンビを知らない人はいないだろうが、小田部羊一さんを知らない人は結構いるのではなかろうか?

小田部羊一さんは高畑&宮崎と東映動画で切磋琢磨した戦友。高畑さんの同期で宮崎駿の先輩にあたる。
ジブリ設立の前にアニメーション業界からは距離を置いたが、その後任天堂へ籍を置き、『マリオ』や『ゼルダ』のキャラクターデザインに携わった、ゲーム界のレジェンドである。

1971年、この3人は『長くつ下のピッピ』という児童文学のアニメを作るために東映動画を退社。Aプロダクションに移籍する(今のシンエイ動画。『ドラえもん』作ってるところ)。
結局『ピッピ』はボツとなるのだが、この時の準備が『ハイジ』に活きることとなる。

1973年、ズイヨーから『ハイジ』を演出しないか、という声が掛かった高畑は宮崎・小田部を連れてズイヨーへと移籍。
3人は当時では珍しかった海外でのロケハンを行い、徹底したリサーチの元で『ハイジ』の制作に乗り出すことになる。

彼らの下には、後に『機動戦士ガンダム』を世に送り出す富野喜幸(由悠季)がコンテマンとして参加。
ジブリ、ガンダム、マリオの生みの親が揃ってしまうというアニメ界の惑星直列🌞🌎💫
この一時の奇跡こそが『アルプスの少女ハイジ』なのです!

本作と同時期のアニメーションといえば、『空手バカ一代』『エースをねらえ!』『侍ジャイアンツ』など、『巨人の星』や『あしたのジョー』の流れを汲むスポ根ものが目立つ。
もう一つの主流としては『キューティーハニー』や『魔女っ子メグちゃん』など、『魔法使いサリー』の流れを汲む魔女っ子もの。
さらには『ガッチャマン』『新造人間キャシャーン』『破裏拳ポリマー』などの、タツノコヒーローものが勢力を伸ばしてきている。
『鉄人28号』の流れを汲む『マジンガーZ』のような巨大ロボットものも、興隆の兆しが見え始める。
もちろん『オバケのQ太郎』のようなキャラクターものは依然として人気ジャンル。

このように列挙すると、アニメーションの系譜の中で『アルプスの少女ハイジ』が如何に異質なものなのかがよくわかる。
子供たちが胸を躍らせるファンタジーやバトル、高度経済成長期らしいド根性精神は描かれず、代わりに真に迫った心理描写や何気ないアルプスの生活が微細に描かれる。

徹底したリアリティの追求は、アニメを消耗品から芸術に昇華させようという試みのように感じられる。
子供向けの商売でありながら、その中身を子供騙しにはせず、大人の観賞に耐えうる文学的なものにしようという精神は、その後の日本アニメの巨匠たち、宮崎駿監督、富野由悠季監督、押井守監督、片渕須直監督や庵野秀明監督、細田守監督、新海誠監督などに引き継がれてゆくことになる。

リアリティのある物語というのは、裏を返せば平坦で面白みに欠ける物語ということ。
それを観賞に耐えうる作品にする為には、視聴者を退屈させないだけの魔力を画面に込めなくてはならない。
この点において、宮崎駿&小田部羊一は凄まじい仕事ぶりを発揮している。

当時の作品の中でも、作画のレベルは群を抜いている。同年に『チャージマン研!』が放送されていることを考えると、このアニメの絵がいかに凄いかわかるだろう(『チャー研』に問題がありすぎるというのもあるけど😅)。
流石に今の視点から見ると絵柄は古いけど、遠近感には一切の狂いがないし、キャラクターの作画が崩壊することもない。
動きの滑らかさなど、もはや芸術品といっても良い。

「1週間に7日、24時間働いても時間が足りない」と言われるほど、当時の現場は地獄の様相を呈していたという。
中でも宮崎駿の仕事量は凄まじく、たった1人で全カットのレイアウトをこなしていたという。
1年間で12,000〜15,000枚のレイアウトを描いたとも…。宮崎さんって、歴史上最も多くの絵を描いてきた人間なんじゃなかろうか?
宮崎駿が原作の地位を確立するまで、血の滲むような下積みがあったということを、本作を観れば感じることが出来ると思う。

本作が他のアニメと異彩を放つのは、物語を通して成長する人物が主人公ではないということ。
本作は全52話のうち、前半17話、中盤18話、後半17話、といった感じで、綺麗に3つのパートに分かれている。物語の基本である序破急というやつですね。

この物語、ハイジの成長という意味では前半で終わっており、ハイジのドラマという意味では中盤で終わってしまう。
じゃあ後半はなにかというと、物語がクララ中心に切り替わるんです。
というか、中盤にクララが登場した時から、物語の中心は彼女に移り、ハイジは彼女の回復と成長を助ける聖母のような存在へと変わる。

足の動かない少女クララ。
本作は彼女が立ち上がり、1人で歩けるようになるまでの物語。
これはつまり、ひとりの女の子の自立の物語なのです。それを足の動かない少女の成長に置き換えているのです。
クララ=視聴者を表し、それが『ハイジ』を観賞することで精神的に成長を遂げる、という構図を暗に仕込んでいるわけです。

1人で立ち上がるのは苦痛を伴うし、転倒することは恐ろしい。
心の弱さに支配されることもある。
しかし、ゆっくりでも自分の足で立って歩くこと、自分の手で花を摘むことが大切なんだ、というメッセージが込められている。
だからこそ、観客は必死に頑張るクララに自分を投影し、彼女が立ち上がり歩けるようになる場面でグッと感動してしまうのでしょう。

現代のアニメでは考えられないほど、物語のテンポはゆっ〜くり。
丁寧な作劇であるが、刺激は少ない。
時代を超越する普遍的な物語の為、観賞の価値は十分あるのだが、やはり途中の20話くらいはすっ飛ばしたくなる。
とはいえ、どれだけ怠くても全話しっかりと観賞して、クララの苦労をわが身の事として体験せねばなりません。途中を飛ばすなんて楽をしたらダメ、絶対。

アニメ界の奇跡的な一作。
改めて見直してみては如何でしょうか。
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