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めぐりあう時間たちのhanaのネタバレレビュー・内容・結末

めぐりあう時間たち(2002年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

恐ろしく長い文面になってしまいました...本当に長いです。お時間とご興味のある寛大な方だけどうぞ。↓↓↓


私のオールタイムベスト。
不動の1位です。

敬愛するスティーヴン・ダルドリー監督が二作目に手掛けた映画。(1作目は言わずと知れた名作「リトルダンサー」)

大変美しく、底無しの奥深さと力強さを持つ作品です。ただしあまり万人受けしない作品のようなので、オススメですよと全力で言えないのがツライところ。(同監督作品の中でもFilmarksのレビュー数は格段に少ない...。おかしいな...)
趣向の合う方と、少しでも感動を共有できたらなと思っています。

この映画はとても文学的要素の強い作品だと思います。マイケル・カニンガム原作の小説の、非常に内的な世界観が見事に映像で表現されており、その質の高さと美しさに驚きます。
今作の映像、音楽、セリフ、そして何より役者(主演の3人含め出演者すべて)の演技は繊細かつズバ抜けて雄弁です。

人間の内に秘めた繊細な部分を、そっとすくい上げるように描いてくれるダルドリー監督の作品が私は大好きです。
同時に役者の持ち味と隠れた人間性を引き出す天才的な能力にいつも驚きます。ダルドリー作品を観るごとに、その芸術的な感性の鋭さと繊細さ、同時に人間的な優しさと寛容さに心打たれます。

主演のニコール・キッドマンの言葉を借りるならば、
「高い知性と激しい感情表現の両者を見事に両立させる点が稀な監督だ」と。
「しかもそれが冷たい印象になっていない。温かみと希望と愛情に満ち溢れていて、でも感情的にはなっていない。琴線に触れようとするのではなく、人間の感情を正直に時には残酷に描いている。人生という旅の苦悩を見つめているの。」
私も激しく同意します。ダルドリー監督の魅力は、つまりそういう事です。ニコール素晴らしい笑。

前置きが長くなりました。いい加減そろそろ本題に。笑

本作の主人公は3人の女性です。
⚫︎ニコール・キッドマン演じるヴァージニア・ウルフ/1923年英リッチモンド
⚫︎ジュリアン・ムーア演じるローラ・ブラウン/1951年ロサンゼルス
⚫︎メリル・ストリープ演じるクラリッサ・ヴォーン/2001年ニューヨーク
時代も国も環境も違う3人の女性の、”人生が凝縮された1日”がそれぞれ描かれ、場面が複雑に絡み合いながら一本の作品になっていきます。そして彼女たちの潜在意識を、ヴァージニアが書く名作「ダロウェイ夫人」が繋いでいく。
また各物語を繋ぐ橋渡し的な役割として共通のモチーフが多様されますが、それぞれの描写に合わせた絶妙な使い分けとその巧妙さは抜きん出て秀逸です。(言及し出すとキリがないので今回は割愛します...)

作品の性質上、映画と同じ場面展開では説明がしずらいので、一人ずつ行きましょう。
あえてもう1回言いますが、このレビュー本当長いですよ?笑

先ずはヴァージニアから。
(ニコール・キッドマン/1923年英リッチモンド)
1941年に入水自殺した実在するイギリスの作家です。この映画の原作の、さらに起点となる作品「ダロウェイ夫人」の著者であり、今作では同小説が想起され、まさに今から書き始めようとされる所が彼女の”1日”として描かれます。
ヴァージニアは、幼い頃に母親を亡くしてから精神を患い、療養のためロンドンを離れてリッチモンドの田舎町で夫のレナードと暮らしていました。
精神的に不安定な彼女は、鬱気質でむらっ気があり全てに対して複雑で繊細です。彼女はこの田舎での暮らしに心底嫌気がさしていました。
姉のヴァネッサと子供達が訪ねてくるまでの時間、彼女は散歩をしながら小説の構想を練ります。「”ある女性の一生が凝縮された1日”を描こう。そして些細なきっかけで主人公は自殺する。」
午後、静かな田舎に押し込められたヴァージニアの鬱屈とした日常に、ブルジョワの象徴のようなヴァネッサ達が訪れ外の世界が流れ込みます。しかし来訪者はいずれ立ち去り、またこの耐え難い静寂の中に戻らなければならない。
姉達が去った後ヴァージニアはその衝動を抑えきれず、ロンドン行きの列車に乗ろうと一人家を抜け出します。異変に気づいた夫レナードは彼女を追いかけ、作中でも大切な役割を担うあの駅での夫婦の口論のシーンが展開されます。
ここでニコール・キッドマンの素晴らしい演技によりヴァージニアの押込められた内面が、エネルギッシュかつ理性的に吐露されます。この平穏の中に私の人生はない。たとえ更に心を病む結果になったとしても、都会の刺激に刺されて生きていたい。レナードは彼女を想うがゆえに激しくぶつかり葛藤しますが、最後には愛情深く彼女を受け止め、ロンドンへ戻る事を決意します。
かつてロンドンで2度も自殺未遂をしたヴァージニアを知る彼にとっては、これは選び難い選択のはずです。またいつ彼女を失うかもしれない恐怖に苛まれ続ける事になります。それでも、平穏の中に幸福と安らぎを見出せず、自分の精神と更には命すら削ってでも喧騒と刺激の中にしか生きている実感を得られないヴァージニア自身が、他の誰よりも苦しんでいる事をレナードは理解しています。
映画では描かれませんが、実際にヴァージニアはこの後ロンドンで「ダロウェイ夫人」を書き上げました。
その夜、暖炉を囲む2人は作中の他の誰より幸福に映ります。互いを深く理解し合っているからです。レナードが、なぜ誰かが死ぬ必要があるのかと小説について尋ねます。愚かな質問かと続ける夫にヴァージニアは、いいえ少しもと笑いながら、命の価値を際立たせる為だと答えます。そして死ぬのは、ダロウェイ夫人ではなく詩人だと。ヴァージニアの1日は終わります。

次にローラです。
(ジュリアン・ムーア/1951年ロサンゼルス)
夫ダンと息子リッチーと共に平和に暮らすローラは、2人目の子供を妊娠中の平凡な専業主婦で、その穏やかな生活はこの上なく幸福なように思えます。しかしローラは、自分でも不可解な程この満ち足りたはずの暮らしに馴染めずにいました。
夫ダンの誕生日の日。起き抜けに「ダロウェイ夫人」を読むローラは、その日リッチーと一緒に誕生日ケーキを焼こうとしていました。彼女の”1日”の始まりです。
1度目のケーキは失敗し、散々な出来上がりでした。そこへ来訪者キティーが訪れます。キティーは社交的で華やかで満たされた完璧な女性ですが、ただ一つ子供にだけ恵まれませんでした。キティーは子宮に腫瘍が見つかり、検査の為入院するのだと言います。いつになく落ち込む彼女に、ローラは癒しと慰めを与え絆を得ようとしますが失敗します。キティーが去った後、ローラは自分の人生の歯車が噛み合っていない決定的な絶望感を感じます。作中で積み上げられていくローラの細かな描写の数々は、彼女が完全には家族を愛し切れていないことを表しています。
2度目のケーキを完璧に焼き上げ、家を完璧に綺麗にし、リッチーを知り合いに預けると、ローラは自殺する為にホテルへと向かいます。そこで口ずさむ「ダロウェイ夫人」の一文「死ぬことは可能だ」。しかし彼女には死ぬことはできませんでした。代わりにこの日ローラは別の決断をします。
夫ダンが帰宅しテーブルを囲んだ家族3人のささやかな誕生日パーティー。そこでダンは、今の自分がいかに幸福で満たされ、家族を愛しているかを語ります。
一方ローラは、ここに乗り越え難い絶対的な気持ちの溝が存在することを痛感します。自分自身がこの幸せを享受できない現実と、家族と本当の意味で気持ちが通じ合わない事実に、ローラはどうしようもなく苦しみます。
作中で最も内向的でセリフの少ないローラの心情表現を、ジュリアン・ムーアは見事に演じ切りました。眠りにつく前ドア越しに夫と話す彼女の、ボロボロの表情とそれに反した気丈な声は、引き裂かれた胸の内を痛いほど表しています。そしてローラはその日の最後に、家族を捨てる決心をします。
ローラの”1日”が終わります。

最後にクラリッサです。
(メリル・ストリープ/2001年NY)
編集者として働くクラリッサは、レズビアンのパートナーであるサリーと長年共に暮らしています。またクラリッサには離れて暮らす娘(人工授精で出産)がいますが、彼女の気持ちがサリーにも娘にも向いていない事が、物語が進むごとに表面化していきます。
その日は、クラリッサの若い頃からの親友リチャードの詩が表彰される授賞式の日でした。クラリッサはリチャードの為に友人を集めて自宅でパーティーを開きます。これがクラリッサの”1日”です。
花は私が買ってくるわと、小説の冒頭と同じセリフを言うクラリッサは、ダロウェイ夫人の投影のように描かれます。またダロウェイ夫人の名前がクラリッサ、その夫の名前がリチャードであることから、リチャードはクラリッサを”ダロウェイ夫人”と呼び習わしていました。
エイズを患い度々幻覚を観るリチャードは、子供の無邪気さと芸術家の気難しさを併せ持った人物です。かつて恋人だったこともあったクラリッサは、もう何年もずっとリチャードの世話をし続けています。クラリッサの全てはリチャードに向けられ、それ以外は彼女にとっては些末な事です。
ちなみにこのリチャードは、1951年ローラの息子として幼い姿で描かれるリッチーと同一人物です。
授賞式とパーティーの流れを確認しに部屋に来たクラリッサに、リチャードは授賞式には出たくないと言います。目指した物は書けなかったのだと。彼に残るのは自分の作品に対する失望感だけです。静寂をごまかす為に君はパーティーばかり開くと、クラリッサを非難するリチャード。この辺りの微妙なやり取りが、クラリッサとリチャードの間の複雑な結びつきを描き出しています。リチャードと一緒に居る時にしか生きている事を実感できないクラリッサは、いつまでも過去に囚われ今目の前にあるものが見えません。リチャードはその事を理解しているからこそ非難し、そして心を痛めます。クラリッサはリチャードの死をひたすら恐れ、リチャードはクラリッサの為に生き長らえる。
家に戻りパーティーの準備に専念するクラリッサの元に、リチャードのかつての恋人ルイスが来訪します。3人には若き日の苦い思い出があり、彼と会う事でクラリッサは気持ちの安定を欠いてしまいます。
この時のメリル・ストリープの演技は本当に素晴らしい。観ているこっちの心がざわつく程の、混乱と不安の去来。この辺りからクラリッサの周りには不穏な空気が付きまとい、夕方に再度訪れたリチャードのアパートメントで悲劇は起こります。
クラリッサが部屋を訪れると、興奮気味のリチャードが棚を壊し、窓から光を入れるんだとカーテンを開け放っていました。尋常でない様子にクラリッサは、彼をなだめようと言葉を掛けます。クラリッサはこの状況が意味する事を半分理解はしていますが、しかしもう半分では受け入れられずにいます。その心情はメリルの複雑な表情と仕草から観ている側にも伝わります。しかしリチャードは「僕たちほど幸せな二人はいない」とダロウェイ夫人の小説を引用した言葉を残し、そのまま窓から身を投げてしまいます。作中で最も衝撃的な瞬間です。
リチャードの自殺は、クラリッサから彼の存在を奪い去ってしまう行為であると同時に、クラリッサに新しい生を与える行為でもあります。クラリッサがしがみ付く過去からの解放です。
リチャードの死に打ちのめされるクラリッサの元に、その夜来訪者が訪れます。リチャードの母ローラです。家族を捨てたローラを敵(かたき)のように見つめるクラリッサは、しかし彼女の話を聞くうちに次第に許しの感情が芽生え、同時に人生の苦悩を思い知ります。家族を捨てた事を、後悔していると言えたらいいのに。捨ててきた家族全員に先立たれ、1人生き残ってしまったローラは、この重荷を一生背負い続けます。今までもこれからも。
リチャードを亡くしローラに会い、改めてクラリッサは今目の前にある絆を見つめ直します。
クラリッサの1日の終わりと共に、作品も終焉に向かいます。

物語の導入部分は1941年のヴァージニアの入水自殺の場面から始まります。「私たちほど幸せな二人はいない」ヴァージニアも「ダロウェイ夫人」の一文を残してこの世を去りました。これは彼女たちの”1日”とは別の時間軸で構成されます。そこから紡がれる3人の女性の”人生の全てが詰まった1日”。それまでの人生とこれからの人生が交錯する一瞬。そして最後はまた導入と同じヴァージニアの自殺の場面が短く繰り返され帰結します。
ヴァージニアの死は、悲劇ではなく彼女自身によって選択された生涯の完成の形です。

この作品の、誰のどの場面に共感し何を感じるかは人によって様々です。観るタイミングによってその内容も変わるでしょう。もしかしたら一切共感なんか出来ないかもしれません。
しかし、この拭い去れず底知れない余韻。輝かしい未来と絶望が同時に押し寄せるような複雑な感情。この感覚を味わう為に、私は何度も何度も噛みしめるようにこの映画を観ます。

人間の心がいかに豊かで複雑で、それゆえに苦悩に満ちているか。作中でヴァージニアが言う通り、誰しも”自分自身にしか分からない”複雑で形容し難い感情を持っています。それが理解されず、そして理解できない為に、すれ違ったりぶつかり合ったりしてしまう。
晴れやかで素晴らしい日。激しく打ちのめされる日。私たちはそのどれをも受け入れて、ささやかな幸福と苦悩を積み上げながら生きて行くしかない。自分の人生をいかに生きるか。私たちはいつも何かを選択しなければいけません。それがどんなに耐え難い苦痛を伴ったとしても、自分自身で生き方を選ばなければいけない。そしてそれが例えどんな形をしていたとしても、人の命は力強く尊いものです。

作中でひっそりと流れるフィリップ・グラスの素晴らしい音楽。この音に浸りながら、エンドロールを迎えられる幸福。
やはり不動のベストムービーです。


大変長い文章になりました。もし最後まで読んで下さった方がいらっしゃいましたら、本当に本当にありがとうございます。m(_ _)m
hana

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