ハシビロコウ

すずめの戸締まりのハシビロコウのネタバレレビュー・内容・結末

すずめの戸締まり(2022年製作の映画)
-

このレビューはネタバレを含みます

この映画で、君の名はからの災害三部作ということになりそう。
君の名はでは、災害を描きつつもあくまで災害自体はファンタジーで、必然、それが日常である人達の精神性にも踏み込まなかった。

天気の子では、温暖化という現実の延長にある災害を描くことで、日本人が選ぶだろう(または持ってほしいと監督が思っている)精神性にも焦点を当てた。

ここまでの段階を考えると、311という災害とその被害者の集合体として架空の人物を描いたこの映画は、1つの集大成ということになる。
深海監督のこのテーマへの触れ方は、否定→フィクションを通じた間接的な受容→再生とある種の諦念という流れになっていて、この10年で少なくない日本人が辿ったものと合致する。
そしてその両者の精神的な合流点としてこの映画がこの規模で公開されたということは、新海誠はすでに日本人の代表としての性格を持つようになったと言っていい。
つまり、すずめと新海誠は、日本人の代表という意味では同じ世界の住人になったことになる。川村元気による魔改造もついにここまできた。

ロードムービーとしては、RPGの古典(各地の聖地の封印巡りと、仲間や装備の調達)がわかりやすく搭載されてるのが、盛り上がりやすくていい。
ダイジンや左大臣がなんだったのかはまだよくわからないので見返したい。
皇居の地下からミミズが出てくるというのは、日本人が皇室をあんまり重視しなくなったことの暗喩にもなってるのが面白い。一歩間違えば右翼に燃やされる案件だよね。

失うこと、失った自分を、何かを取り返したりなかったことにしたりする方法以外で救うことは新海さんがずっと扱ってきたテーマでだけど、いまは日本人の多くのテーマになってる。やっぱり時代が求める作家なんだなぁと思った。

ただ、それはもちろん偶然ではなくて、新海さんが日本の民話や芸能に関心を寄せ続けたことで、日本人が持っている世界観(タタリと災害、まじないと祭による鎮めと祀り)と精神性(日常としての災害を生きるからこその刹那的な思考、無常観、死生観)を自分に深く定着させた人だからだろう。

大きな力の流れがこの企画を通させたということなんだろうなー。

二回目:
魔女宅との親和性というのが気になってたけど、ダイジンが喋る→喋らなくなる→最後に喋るの流れはたしかにジジと同じだった。

一回目は気付かなかったけど、ラストでも脱恋愛の挑戦が見えた。
いや、恋愛要素自体はあるんだけど、君の名はや天気の子では、恋愛が成就すれば自分も救われてハッピーエンドだったのに対して、今作はそうはいかない。
すずめはソウタを開放した後に過去の自分と対峙するけど、最初は救う手立てがわからずに挫折する。
これは、過去作より一段難しいハッピーエンドに挑んで、作家としてもう一つ先へ行こうという姿勢の現れだと思う。
この映画が最初から恋愛ものとして考えられていたら、ソウタを開放して終わりでよかったはず。

恋愛をあくまで添え物でとどめて、自分で自分の心を癒やすことを救いの中心にしたところには誠実さが感じられるし、人生の後半に差し掛かる監督がこれからを生きていくために、恋愛ではない希望を込めたかった、ということじゃないかと。

あと、台詞回しがいい。
ある事柄を、間接的に色んな言葉で語るのは新海さんの特技だと思う。
それが冗長に捉えられることもあるけど、直接的に言わないことで、シーンの意図を観客が腹落ちするまで先回りしないので、カタルシスが高まる効果もあって、今回のラスト付近ではそれがすごく効果的だったと思う。
(環さんが、あえて「それだけじゃない」のその中身を言わないところとか)