ハシビロコウ

ダンサー・イン・ザ・ダーク 4Kデジタルリマスター版のハシビロコウのネタバレレビュー・内容・結末

-

このレビューはネタバレを含みます

後半はずっと、ほんとに死ぬじゃん、どうすんだよ!と怒りながら見てた。畜生、俺がセルマのことを語るぞ。と、感情が高ぶりすぎた告別式の挨拶のような気持ち。

1.ミュージカルという機能

ミュージカル映画では、「ミュージカルシーンで起きた感情の働きや現象の結果が、映画の中で現実として扱われる」という暗黙の前提があることが多い。
つまり、映画現実の中でも、突然歌って踊るなんてないはずなのに、その結果については現実と空想の区別がないという状態。
それはある意味破綻だけど、そういうものとして楽しまれている。
一方で、この映画では、ミュージカルはあくまで主人公の空想とすることで、映画現実の中にミュージカルがある矛盾を回避している。これならアレルギーがある人も違和感がない。
この映画では、ミュージカルは決して現実に影響しない。それが、セルマの境遇に強烈なリアリティをもたらしている。
あと、辛すぎる現実に対しての心の繭としての歌と踊り、というのも、追い込まれた人間の営みとして歴史的にあったことなので、ハッピーなだけでない歌と踊りの歴史にも思いを馳せられる。

2.ミュージカルという手法とほぼ盲目の主人公という設定の合致

ミュージカル映画で、環境音とかセリフからミュージカルに移行することはよくある。なぜそうなるのか。この映画はそれに説得力のある理由を与えている。
セルマは後天的に視力が衰えるので、聴覚から周囲の状況を頭の中で映像として構築して、発展させる習慣、能力が発達している(日常生活のためにもそうする必要がある)。
そのため、音と映像記憶が密接に結びついていると考えることができる。
だから、視力を失いつつあるセルマが、環境音をきっかけに高密度な空想を作り出すことはある意味当然、キャラクターと映画的な手法がしっかり合っていてなるほどと思った。

3.現実に淘汰されていくミュージカル、空想の救いと無力さ

セルマは辛すぎることがあるとミュージカルに感覚を切り替えて、繭に入る。それが、人を殺した時、裁判で孤立無援の時、処刑台に向かう時と現実が過酷になるにつれ、現実の恐怖に圧倒されるようになっていく。セルマを夢見がちな人間と捉えるのは間違いで、しっかりと現実の恐怖を感じるがゆえに、必死に空想を求めるけど、それすらできなくなっていく哀れさが凄まじいディテールで描かれる。それが、まさに絞首台から落ちるその時まで繰り返される。恐ろしい執念。
セルマをここまで生きながらえさせた空想の力も、その限界も、この映画では表現されている。

4.セルマについて

セルマの中心にはジーンを産んだことに対する罪悪感があっただろう。それが人の親切を遠ざけさせたんだろうけど、一方でそれに頼らないと生きていけない状態でもあった。
セルマの周りにはか弱い善人がいて、彼女を助けたけど、結果としてその弱さを引き受ける形で死んでいった。自分の人生を諦めてるようでいて、助かる希望にすがってもいた。空想に救われてたけど、最後まで死の恐怖に泣いてもいた。

鬱映画鬱映画言われてるけど、閉じかけた目を開かせてくれるとてもいい映画だった。
しわ寄せを引き受けさせられる人も、泣きながら死刑執行される人も、困難な現実と空想の救いに引き裂かれる人も、たしかに存在するので。