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N号棟のStroszekのネタバレレビュー・内容・結末

N号棟(2021年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

廃墟団地、ビニールで囲まれたベッド、赤い女等、Jホラーらしい記号表現には満ちているのだが、ひとつひとつの描写に厚みがないため、なかなか面白さにつながっていかない。制作者が好きなホラー要素を断片的に繋げた感じといいますか。

一例を挙げると、住民に差し出される赤いスープ、「あれ、何が入ってるのかな?」と想像させる恐怖の導線が必要だろうに、それがない。「人肉かな?人肉食カルトなのかな?」と想像させるには、そこまでの伏線がない、というか。小中千昭の言葉を借りれば恐怖の「段取り」がしっかりしていない。観る側に"何がこの映画の恐怖の根源なのか"を想像させる段取りを踏んでいないため、ポイントがとっ散らかった印象を受ける。

アマプラで観たのだが、声が小さくて台詞が聞き取りづらい。こういう作品にも日本語字幕をつけてほしい。

大学生が卒業制作で幽霊団地と言われる廃墟に行き撮影を試みるがそこにはまだ住人のコミュニティがあった。そのカルトめいた集まりは、加奈子という女性が中心人物となっており…。

「廃墟を撮影する」みたいなのが卒業制作として成り立つ映像学科があるとして、ロケハンと映像制作を兼ねている、というのはあり得るのだろうか。メモも取らずに、ハンディカム持って行ってるだけなんだが。ヒロインは元カレによく「カメラ回して」と言うのだが、「YouTuberじゃないんだから…」とうんざりした。取材対象に関する新聞記事収集、取材メモ、取材対象への接触、撮影していいかどうかの許可取り。そういった段取りもなしにいきなり「卒業制作でーす」と言われても困る。大学の卒業制作というのはそういうものじゃないだろう。たいていは送り出す側の教員がしっかり指導するのでは。たまたま相手側もカルトめいた集団だからあれで済んだかもしれないが、普通の住人だったら大学側に苦情がいく案件だ。

「死後の世界は存在するか」という高橋洋的テーマを追求しているのだが、ほんとうにそれについて考えている感じがなく、キャラがその話題を話しているだけ、という感じがする。高橋洋なら青白い閃光、白石晃士なら死者が虫のように蠢く世界、といった表象があったと思うが、この映画では「さっきまで死んでいた人が生き返っている」という描写に留まっているので、新味がない。「死後の世界」をテーマとする以上、何らかのビジョンを示すのが筋ではないだろうか。

そもそも人の自由なライフスタイルにわざわざ都会からケチをつけにくる大学生、という感じ悪さがある。野外とは言え、調理している赤の他人の鍋の蓋を取って中身を見ようとするのはどうなんだろうなあ。

筒井真理子が出てきていきなり画面が締まる。「死後の世界は存在する」と主張するカルトの教祖的人物、加奈子だ。

しかしそんな筒井の奮闘も虚しく、団地の人間が一斉に発狂して奇声を発し始める場面で一気に安物のアングラ演劇っぽくなる。悲しい。恐怖の出来事が発生するタイミングが微妙というか、きちんとホラーの段取りを踏んでいない感じが悲しい。こういうのはもっとこう、じわじわ来るものなのでは。

元カノを巡る今カレ・カノの喧嘩。それを仲裁する団地の管理人(野外で煮炊きをしていた人物)。人の心の闇に付け入る系か。

団地の一室で雑魚寝し、目を覚ました今カノが座っていると、団地住民の一人の女性が夫を殺した過去を告白する。「秘密だよ」と言うと、雑魚寝していた住民たちがノソノソと抱擁を始める。ここも不条理演劇っぽい。

この映画には女性同士のキスの場面が2回ある。女性が主導権を握るカルトで筒井真理子の母性、女性同士のキスを重要な要素にしているところは少し考察しがいがある点かもしれないが、後半になるにつれどんどん筒井のカリスマ頼りの作劇になるのが残念であった。なぜなら同じく筒井を起用している深田晃司なら、同じ道具立ててどう演出しただろうか、とチラチラこちらの頭に浮かぶからだ。
 
ちょっとフィールドワーク先で大学生が酷い目に遭う『ミッドサマー』っぽいが、それを意識していると思われるシーンもある。しかし五月祭よろしくふんだんに花を使っていたあちらとは異なり、使用するのは赤い衣装と赤い紐だけというショボさだ。

それでまあいろいろあって、最後にビニールで覆われたハンドメイドの死体蘇生室みたいな場所がクライマックスになるのだが、そこでもまた小演劇みたいな感じで住人に囲まれた主人公が「死は怖いことではない」と証明する儀式に参加する。

自殺、人殺し、蘇生の通過儀礼を経た主人公は植物状態の母親の生命維持装置を外し、霊的存在になった母親に抱きしめられる。

ラストシーン、主人公は団地に戻って住んで(おそらくは死んで)いる。

この映画でいちばんダメだな、と思ったのは、尊厳死や安楽死の問題をホラー映画に持ち込んだことだ。余命映画がもうすぐ死ぬ人たちを劇的に描いてお涙頂戴するのと、ホラー映画で植物状態の身内とはまったく関係のない恐怖経験をしてきた主人公が「死は終わりではないんだから」とその人の生命維持装置を外すのとでは、悪質さの度合いが全然違う。

最後の場面で主人公が赤いネグリジェみたいな服を着ているので、鶴田法男、黒沢清の赤い女へのオブセッションを思い出させるが、劇中の住人の赤い服と色味が違う(住人のはもっと赤黒い色)ので色味の統一感がない。

エンドロールでモデルとなった団地で起きた事件の新聞・雑誌記事を流すという、『それがいる森』(中田秀夫監督、2022年の後発作品)と同じ方式を取っている。
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