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PLAN 75のRのレビュー・感想・評価

PLAN 75(2022年製作の映画)
4.6
75歳になると国民の皆さんはいつでも安楽死を選択することができます。死の直前には国から10万円が支給され、準備金として自分の好きに使っていい。高齢化と少子化が世界のどこよりも急速に進む日本で、日本の未来の繁栄ために開始された行政サービス。もちろん、世界からも注目されている。設定としては、まぁ、絶対にありえないだろうけど、非常に興味深いテーマなのではりきって見てみました。主人公は75歳を超えたおばあちゃんミチ。その昔流産で子どもを失い、長く連れ添った夫とは死別、現在はホテルの清掃員として生真面目に働いている。ある日、職場の仲間たちと健康診断に行くと、PLAN75のCMが流れている。「未来を守りたいから…」死を選んだ老女は語る。人間は生まれるときは選べないから、死ぬことくらいは自分で選ぶことができたらいいだろうな。安心だなと思って、迷いもなかった。と。ミチはその後、高齢であるがゆえの不如意を次々と経験していく。生活費を稼ぐ仕事の問題、住居の問題、薄れゆく人間関係、容赦なく進んでいく老い……本作を見ながら浮かび上がってくるのは、人類だれしも例外なく直面せざるを得ない究極の問題、生とは何か? 人間はどこから来て、何のために生まれ、何のために苦労して生き、どこへ行くのか。ミチも昔は幼い少女だった。無邪気に縄跳びを楽しんでたことだろう。その日々はいまはもう幻。目の前にあるのは、殺伐とした現実と、迫りくる死のみだ。この苦しみを、生きて対処し続ける方法が、ミチに残されているのだろうか。自分の老いをひしひしと感じながら、まさに自分が死に近づきつつある、という人間の様子を、これほど心理的に近い距離で見ることは、我々の日常生活にはほとんどない。老いや死とは、いつも他人事で、できる限り目を背けておきたい現象である。だが、本作を見ると、それがまるで自分の現実のように感じられる。静かな恐れを感じながら見ていると、普段なら考えないようなことをついつい考えさせられる。いったい生きる意味とは? ……直視できない人、拒絶反応を示す人、気分を害する人、不安を掻き立てられる人、そのすさまじい現実に衝撃を受ける人、さまざまな反応があることだろう。確実に言えるのは、それはいつか必ず自分の現実になるということ。容赦なく、逃げ場もない。たとえ自分が老いても、家族がいればまだましだ、と思う人もいるだろう。本当にそうだろうか。本作を見ればそんな安心は吹っ飛んでしまう。そしてもうひとつ、本作でむしろ死より大々的に描かれる最大の隠れテーマは、とりわけ日本人に顕著な、人間としての一大問題。それは、すなわち、システマティックな社会の存続を可能にするため合理性を追求した果てに生じる、究極の非合理性である。それをPLAN75に具体化させて描いているのだ。少し考えただけでも、日本にはそういった不条理があふれかえっている。現存するシステムの維持だけのために、個人の自由や幸福が何のためらいもなく犠牲にされる。大衆はただただ生存するためだけに、いかなる不条理も受け入れる。こんな人たちが他にいるだろうか、こんな場所がほかにあるだろうか。特に、本作に出てくる若者たちを見ると、彼らの人間性の欠如にはぞっとする。礼儀正しく、さわやかに、やんわりと、効率的に、淡々と死神の仕事をこなす彼ら。日本社会という不気味な世界において、ゆっくり窮地に追い込まれていく老人たちに、おぞましい死の選択を迫る、若者たち。そして、表面上、平和でクリーンな社会機構を演出し、それ以外の選択の発想をなくし、この世界は目の前にあるこの生活しかないのだと思い込ませる。これほどうまく成功している洗脳は、他のどんな宗教組織にもないだろう。毎日しんどいけど、何も考えることなく、忙しく仕事して、消費して、税金を納め、たまに気を紛らわせるため娯楽にいそしみ、次世代へ脈々とこの洗脳を受け継ぎながら、愚痴をぼやいて、いつしか疑問に思うこともあきらめ、年をとって、何もわからないまま、やむを得ず、死んでいく。そうした過程にある増えすぎた老人を、都合よくせん滅する方法、それが安楽死であり、この洗脳システムの究極の完成形態である。僕の大好きな小説に、ジョージオーウェルの『1984』という怖い怖いディストピア小説がある。その小説では、大衆を体制側に従わせるために、独裁者が国民を監視しつづけ、思考警察機関によって、ときにすさまじい拷問をして、圧倒的恐怖政治を実現しているのであるが、PLAN75のディストピア、つまり日本というディストピアでは、そんな圧政は必要ない。国に会社を従わせ、会社に個人を従わせ、無所属の個人は国が直接搾取し、個々の反乱要素をつぶして、国民同士で監視させ合い、自己責任という概念を植え付けて、特異な社会規範からはみ出さぬよう、子どもを教育してもらう。そのすべてが国民の中で内面化し、何の疑問もなく自然にそれができてしまう。自動的にそうなってしまう。まさかこれほどのディストピアが発生しようとは。生きていたらジョージオーウェルも度肝を抜かれたことだろう。一体なぜ日本はこんな国になってしまったのか。そのヒントは本作でもうっすら描かれているが、ちょっとだけ僕個人の意見を書いておきたい。僕は、これは、日本人の無宗教があってこその完成であると考えている。人間は「信じる」という状態なしには、どんな行動も起こすことができない、やっかいな生き物だ。信じるものがなくなってしまった心の隙間には、必ず何か別のものが取って代わり、そこにすっぽり入り込んでしまおうとする。そして、信じる根本が何であるかによって、その人の思考様式・行動様式は完全にセットされてしまう。その隙間に当てはめ、人類の幸福、善性の発露、主体性の確立など可能にするために、世界の偉人たちが残した叡智の結晶が、まさに宗教である、と僕は考える。それらが悪人に悪用され、本来の目的を失い、多大な人間を不幸に陥れた結果、日本は宗教を捨ててしまったのであるが、ならば、その空虚に、宗教に代わって今は何が詰まっているのだろうか。自分らは何を信じて、人生の軸に生きているか。その詰め物が、まさに、日本という国で空気を読みながら「普通」の、「当たり前」の暮らしを営んでいく、という感覚である。それを明確に意図して選択した人がどれほどいるだろう。もしそこに選択の意志がなかったのならば、これこそ盲信である。信仰の対象(結果としてそのようなものを目指して生き、死んだ、という形になるもの)となるものが、それをそれと認識することすら困難なほど、当たり前のものになってしまった。ここにさらに、日本特有の、政治権力主導で広まった阿弥陀信仰の名残り、「死=救済」の現世否定(死ねば楽になるという思想)、絶対他力による無力感・諦観のムードがつねに全体にうっすら漂う独特な風土を醸成していると思われる。この洗脳システムを見事に描き切っているのが、本作の最も恐ろしい一面であると思う。全体主義社会システムを存続のために個を押しつぶすことに抵抗を感じない感覚、心理的抵抗を感じても、波風を立てたらシステムの檻から除外されてしまうという恐れ。若者ふたりが老人ふたりに対してとる言動を見てて、心の底からうんざりしたし、ぞっとした。しかして、本作は、僕が予想していたのとは、ちょっと異なるエンディングを迎えた。この洗脳をいかにして脱し、いかにして人間の精神に光をあてるのか、についての答えは提示せずず、宙ぶらりんの印象で終わった。おそらく、我々、観客、個人個人がそれぞれに考え抜いて、答えを出すしかない問題ということなのだろう。2025年には国民5人にひとりが75歳以上の後期高齢者となり、さらに少子高齢化が加速する、その直前を生きている僕たちが、生と死を見直すきっかけとなりうる、大変興味深い映画になっていたと思う。後期高齢者はぜひとも見ておくべき作品だと思うし、二十歳を超えていよいよ日本社会の洗脳にどっぷりつかる瀬戸際にいる若者たちも、ぜひとも見ておくべき作品だと思います。いやー面白かった! またそのうち高齢者になったときにでも見てみたいなー。
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