紫のみなと

あちらにいる鬼の紫のみなとのレビュー・感想・評価

あちらにいる鬼(2022年製作の映画)
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私は瀬戸内寂聴が管野スガ子や高岡智照尼などの実在の女性を描いた伝記ものと、自分のことを書いた自伝的小説とが、どちらもとても好きで、瀬戸内寂聴自身の筆で表現された作家井上光晴との不倫、剃髪までの経緯はもう見てきたことのように映像が頭にあって、しかも瀬戸内寂聴は複数の小説でこのことを描きまくっているので、井上光晴の娘である直木賞作家井上荒野が今更ふたりのことを(そして不倫された側である自分の母親のことも)描いた小説が出ると聞いて、本人が書いてることを他人が書いてどうするんだと思ったし、なんだか悪趣味だとも思ったし、瀬戸内寂聴以上の小説には当然ならないだろうと思っていました。

が、やはり井上荒野という作家は普通じゃなかった。ワイドショー的な悪趣味さからは程遠い、事実を踏まえながら作家が創作した小説となり、それは非常に繊細で切ない小説であって、特に、母親のパートは抑えた筆が緻密に真理を描いていて、途中泣いてしまった。読後何日も心に残る小説だったのでした。

そのため、映画を見始めた瞬間、小説を読んでいた時の胸がザワザワするような感覚がさあっと蘇り、改めて井上荒野の力量を思い知りました。

で、映画がどうだったかというと、出だしは良かったのすが、この作品の中でも非常に大きな見せ場に限って、ここは俳優の表情や台詞回しをじっくり見せて欲しい、と思う場面になると引きで撮られていてがっかりしました。それが2箇所。ものすごく親密性が高い話なのに映画全体に親密さがない。この主要人物3人のがんじがらめな感じも薄い。変なムード音楽みたいなのが再々流れるのもどうかな。

井上光晴こと白木を演じる豊川悦司はなかなか良かった。白木という男はほんとに火あぶりにしたいくらいどうしようもない男ですが、豊川悦司の貫禄でまあ、いかにもじゃなく、滑稽で、おおらかで、子供っぽくて、人たらしな感じを上手に魅せていました。

白木の妻役の広末涼子ですが、この妻の役は、女優なら是非とも演じてみたいと思うであろう、美しく聡明で、深い、深い女性なので、さすがにいつものぶりっ子演技だったらどうしようかと恐る恐る観ましたが、広末涼子もこの妻役にぶりっ子は通用しないと思ったのか、なかなか真剣に取り組んだようないい表情を垣間見せていました。

そして瀬戸内寂聴=みはる役の寺島しのぶ、この人の演技って、どうなんでしょう?みはるのキャラクターがあんまり浮き上がってこない。成功した小説家という設定は分かる、でもこの作家の女としての魅力は伝わらない。小説への情熱も滲み出てこなくて、出家っていう、「生きながら死ぬこと」を選択した切実さも伝わらない。反面、出家が決まってからのみはるや、剃髪後の僧侶としては、寂聴本人のチャーミングな感じが出て憑き物が取れたようなこざっぱりした姿が良かったかなと思いました。少ししか場面ないですが。
そういえばちょっとだけ出てくる秦役の村上淳、笑ってしまうようなリアリティ、良かったです。

瀬戸内寂聴、小説家として大好きでした。いなくなって、本当に寂しい。