紫のみなと

マディソン郡の橋の紫のみなとのレビュー・感想・評価

マディソン郡の橋(1995年製作の映画)
3.8
公開当時空前の大ヒットでしたが、観た時は自分もまだ相当若く、かったるい中年の不倫映画だとしか思えませんでした。
私の父は映画が好きで、私が小学生の頃は「ガス燈」や「慕情」など、テレビのロードショーをVHSに録画したものをウイスキー片手に観る父の隣で、一緒に映画という魔力の虜になっていったので、母や、妹弟の誰1人映画にハマらない家族の中で、私だけが父の理解者のような気になっていましたが、そんな父が当時本作を観て非常に感銘を受けた様子で、全然良くなかったと言う私に、「歳をとったら良さが分かるようにならあや」とにんまり微笑んだことを思い出します。
だからと言う訳でもないですが、BSでちょうど放映されたので、このメリル・ストリープ演じる主人公フランチェスカの年齢になった今、自分がどんな風に感じるのか知りたいと思い鑑賞しました。

思えばその昔、ヒロインのメリル・ストリープが全く魅力的に感じなかったこともそうですが、死んでから子供たちへの遺言として自分の過去の4日間の恋を告白し、挙げ句の果てに遺灰を橋から撒いて欲しいなどというその独白が、身勝手な自己満足としか思えず、死ぬまで我慢できたのにどうして今さら子供たちを傷付ける必要があるのだろうと思いましたが、今回、冒頭のフランチェスカの、
「我が子に書くのは辛い。お墓まで持っていくこともできた。でも歳をとると恐れが消えるのね、それよりも知らせたい欲求が高まったの。生きた証のすべてを知らせたい。自分の本当の姿を愛する人々に知られぬまま旅立つのは悲しい…」
という手紙が長女によって読み上げられた瞬間、あっという間に物語に引き込まれてしまいました。
死期を前にした人間が自分を知って欲しいと願う心が哀れで、いい年になった子供たちが傷付こうが大したことじゃない、それよりも、自分の母親という人間の、本当の喜びや叫びを知り得ることが出来たこの長男と長女は幸せではないかと、フランチェスカの願いは叶えられるべきだと思ったのでした。

そうして描かれる4日間。フランチェスカの前に現れるロバート=クリント・イーストウッドはもうほぼ初老ですが、ものすごくいい歳の取り方をしている。何しろ顔の輪郭が崩れてないし、眉と目がの近さが絶妙!チャーミングな笑顔、刻まれた皺がまた良い。放浪のカメラマンとしての人間性が表情に溢れていてイエーツの詩もいかにもにならない。
とても面白いなあと思って観ていましたが、やっぱりフランチェスカに誤魔化しきれない違和感がある。フランチェスカは決して美しい女優でなくていいのですが、メリル・ストリープは割と好きですし、出演作の「恋におちて」も「愛と哀しみの果て」も「プラダを着た悪魔」もそれぞれの年代でそれぞれに良くて、大好きな作品ですが、この映画はやっぱりメリルじゃない。本作のメリル・ストリープの演技は間違っている。
特に、最後の晩餐のシーン、出会ってわずか数日しか経ってなくて、お互い生涯に二度とない想いを共有していて、幸福と地獄の狭間にあって、家族を裏切る事ができない、因習に逆らえない主婦の辛さを、綿々と繰り出されるセリフを表現するメリルの表情や仕草や立ち回り、涙、全部が何か違う。演技が上手いからって、どんな役でも理解できるとは限らないんだなと。好みの問題もあるかも知れませんが、非常に醒めらされていく自分を感じました。監督もスタッフも、メリル・ストリープの独壇場に異議を挟むことが出来なかったんじゃないでしょうか。

それと気になったのがロバートのこと。
本作を貫くフランチェスカの手紙が示したのは、自分は後回しにして家族のために生きた女性の生き様を、血を分けた我が子に知らしめる一つの視座にすぎない。
ではロバートはどうだったのか。雨の中最後のモーメントに賭けたロバート、信号待ちの後ろ姿、あのあと、ロバートがどんな風に生きてどんな風に死んでいったのか、あくまでフランチェスカの映画である本作においてロバートの哀しみは置き去りのように感じました。

また、長男と長女を演じる俳優が、別に無名なのはいいですが、もう少し深みのある演技をする俳優は選べなかったでしょうか。長男の妻役もあまりに通俗的に描かれています(「ノーブラね」とか言うセリフ…)

若い頃の自分には理解出来なかったヒロインの気持ちや、本作の良さは感じられたのですが、最終的にヒロインを演じたメリル・ストリープによって減点になった感じでした。