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ベルベット・ゴールドマインのBATIのレビュー・感想・評価

4.8
「ベルベット・ゴールドマイン」は1998年にイギリスで製作された作品で、監督は「アイム・ノット・ゼア」、「キャロル」のトッド・ヘインズ。主演は当時24歳のクリスチャン・ベイル。出演はジョナサン・リース=マイヤーズ、ユアン・マクレガー。70年代を舞台にした本作はバイセクシュアルであるロックスター、ブライアン・スレイドと化粧と煌びやかな衣装を纏っているグラマラスなロック、グラム・ロックというスタイルの隆盛と没落を描いたもので、そしてそのファンカルチャーに刺激された青年アーサー・スチュアートがスレイドおよびグラムロックに継投していき、自分がゲイであるというセクシュアリティへの目覚めていく姿を同時に描いた作品です。

物語は70年代のグラムロック期の「ジギー・スターダスト」および「アラジン・セイン」期のデヴィッド・ボウイ、そしてイギー・ポップとの出逢いをペースにして創作されている。ボウイはコンセプチュアルロック、架空のロックスターを創造してそのロックスターを演じるステージングをしていたのがこの頃だ。(それは「ダイヤモンドの犬」というアルバムまで続く)

冒頭でオスカー・ワイルドの出生時のエピソードから始まることから、この物語はゲイ/バイセクシュアリティの人間を描いた、そしてその当事者たちに捧げられていることは明白です。

ブライアン・スレイドのステージでの射殺事件が起きます。ファンたちは悲嘆にくれますが、その事件は狂言によるものであることが発覚します。スレイドは姿をそのままくらまします。彼がいなくなったことでグラム・ロックというカルチャーは下火になっていきます。

ロックへの愛情、そしてそれ以上に自分が陶酔したスレイド本人はどこにいるのかという疑念をモチベーションとしてアーサーは音楽ジャーナリストになる。スレイドの当時そしてその足跡を辿りながらアーサー自身の青春、ゲイとしてのアイデンティティの成り立ちを描く。アーティストとの出会いも恋愛のごとく始まっては終わる、でもその当人にはとてつもない影響と変化をもたらし、自分だけの人生を歩んでいくのだということを、優しい目線で描いた作品である。

ボウイの曲に「ロックンロール・スーサイド」というものがあるが、それもこのスレイドの狂言自殺のイメージの源泉になっているだろう。実際のボウイはアルバム毎に新しいロックスター、ペルソナを創造して活動する事に疲弊してドラッグ依存が強まり、そのようなスタイルから離れてソウルミュージックを目指した「ヤング・アメリカンズ」、「ステーション・トゥ・ステーション」と全く違う音楽性を指向することとなり、自身の休息とリハビリのためにドイツはベルリンへ渡ることになるのだが、スレイドの狂言自殺というのもこのドイツへ渡った経緯を象徴したものだと思う。

そして年を経てアーサーがジャーナリストとして活躍する頃、トミー・ストーンという人形ポップスターが現れます。実はこのストーンはスレイド本人で正体を隠して活躍しているのですが、この時のストーンは白いスーツで健康的で白い歯をみせて笑うようなアーティストなのですが、これは後にボウイがアメリカに渡り、「レッツ・ダンス」以降メジャー志向の商業主義的な活動へ移行していたことがベースになっています。なおかつその時代はボウイは「私はバイセクシュアルではない。」という発言をしており、単なるポップシンガーとしてのスタンスになったことへの過去からのファンが抱いた当時のボウイへの失望を表しているものと思えます。

これが当のボウイには面白くなかった模様で、本人の音源の使用許可が降りなかったというエピソードがあり、モット・ザ・フープルの音源も使わせてもらえませんでした。なお劇中ではモット・ザ・フープルの「ALL THE YOUNG DUES」をモチーフにしたスコアも流れます。

代わりという訳ではないですが、ロキシー・ミュージックやルー・リードの曲が使われます。なお、劇中のバンドの演奏はソニック・ユースのサーストン・ムーアやトム・ヨーク、バーナード・バトラーらボウイやイギー・ポップの影響を受けた当時の音楽シーンの最前線で活躍していたミュージシャンが務めており、若い才能によって繰り広げられる演奏はグラムロック当時の撒かれた種子が萌芽しているように感じられております。

この作品では冒頭でジャック・スレイドのステージに若い少年少女たちが熱狂して集まる様子が描かれます。そこにはクィアなジェンダー/セクシュアリティであることを伺えるファッションの人々もいます。彼らにとってスレイドはただのスターではなく、自分たちをそしてジェンダー規範から解放してくれる救済者になっています。この冒頭のステージが始まるまでのファンたちの期待に膨らむ笑顔はとても多幸感があり、他でもないアーサーにとっても「本当の自分でいられる瞬間」なのです。実際のボウイもそのような存在であったはずです。ただ、ペルソナとして架空のロックスターを演じる事で人々からの羨望と期待を負わされ続けることになったのは想像に難しくなく、クィアなアイドルとしてその価値を求められたのは重荷だったのでしょう。

ユアン・マクレガー演じるカート・ワイルドは実際にボウイとの友好関係にあったイギー・ポップそのものです。実際のイギーは現在も痩せ細るもボクサーのようにソリッドな肉体の持ち主でしたが、ユアンはそこまでの肉体の作り込みはしていません。ただ、スレイドとワイルドの関係性を描くにあたって「トレインスポッティング」でもジャンキーを演じたユアンはとてもハマっており、ステージ上で全裸になるシーンはストゥージズをやっていたイギーそのままです。

このカート・ワイルドとアーサーが出会い、肉体関係を結ぶシーンがあるのですが、建物の屋上で二人が出逢うシーンは近年の「ハスラーズ」でのJ.Loとコンスタンス・ウーが出会うシーンと酷似しています。かつて憧れたロックスターであり、憧れた人間の恋人であるワイルドを観てアーサーはそれが恋愛感情なのか分からないけれども制御できない感情に駆られます。それは伝説というより自分の青春どころか人生を大きく変えて形成したイデアと一つなりたいというような欲望です。ワイルドもまたアーサーにかつてのスレイドの面影感じます。そこにいない男の面影をお互いの中に感じながらその郷愁を噛み締めるがごとく。愛おしく想い、彼らは身体を交わします。このシーンは幻想的かつ、多幸感に溢れています。

最後にトミー・ストーン(スレイド)のライブの後にアーサーは立ち寄ったパブでひっそりとパイントを飲むカート・ワイルドに出逢います。この時二人はお互いに昔愛し合った同士であることに気づかないフリをしながらジャーナリストとロックスターという関係のままでインタビューをします。その中でかつてスレイドから貰ったエメラルドのブリーチを「彼がつけていものだ。オスカー・ワイルドが持っていだのらしいけど。」と渡されます。アーサーは「受け取れない」と拒否しますが、去り際にワイルドはアーサーのビールのボトルを忍ばせていました。それが本物かどうかは分からない。それでも人から人へ受け継がれていくものと価値があることの象徴であり、かつて愛を交わし合った男へのたむけ。

もう終わってしまった栄華の時代。それがフィクショナルなものであったとしても人々に見せた夢と輝き、人間の可能性は決して幻ではなく、それが人の胸に灯した光は消えることはないことを描いていたと思うのです。
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