さかしょ

正欲のさかしょのレビュー・感想・評価

正欲(2023年製作の映画)
4.0
原作は気になっていたけど、結局読まずに鑑賞。
「水」というものは、とてもバシュラールに沿った解釈ではあるけれども、静寂を意味すれば喧騒、不穏を意味することもある。ある一つの秩序を意味することもあれば、そのエントロピーの崩壊を意味することもある。水というのはとても多義性に富んであり、そのペルソナを場面によって付け替える。この作品における水とは、かつての名作であった《ハムレット》のような水の描写を思わせるが、それには留まらない。静かなる夜に潜んで曝け出す背徳の性欲を表すこともあれば、静かさを分かち合った時の同一性、そこから来る噴き出すような歓喜さえも表現する。彼らにとっての水、即ち性指向とは、そうした静かなる同一性を求めるものであり、それが社会に染み渡り、「普通に」生活することの渇望とも言える。
そのような彼らにとって求められる人間こそ、皮肉にも、あの街ですれ違った稲垣吾郎演じる寺井なのだ。彼こそ「普通」の行使人であり、そうして目の前の人間を肯定する。それこそが静けさであり、浸透である。しかし彼は無知だった。そして「普通」の行使人であるから、容易くそれから逸脱するものを排斥する。静かな肯定が打ち砕かれた時、目の前のものを一気に否定する。それが現状の「普通」である。
私は社会で謳われるような「多様性」が嫌いで、それを謳う人間をソフィストだと思っている。作中でも、LGBTQを謳うデモ団体のショットが挿入され、それを桐生は目の当たりにする。学校に行かないインフルエンサーに影響され、不登校になる児童も描かれる。だが、そういう多様性とは、マイノリティという属性を社会が認め、それを逐一システムに組み込む構築である。そしてまたシステムから外れるものを「あり得ない」と糾弾し、排除し、反抗され、認め、組み込む......。これは静かな肯定でない。寧ろ否定の所業であるし、ある見方では暴力だ。そしてシステムが構築されると、同一性を獲得できない者が現れ、彼らは嘆く。こんな多様性が果たしてあって良いのだろうか。
我々は多くの差異を持ち、またその差異に囲まれて生活している。しかし我々は人間で、その反復の中で生まれている。その反復こそ同一性なのかもしれなく、そして我々はそれを感じると、自ずと安心してしまう。これは避け難い人間の、不思議な精神構造であり、これはただ「ある」としか言いようがない。だが、「ある」からこそ、そしてそれが安心なのだからこそ、それをマイノリティと世間から言われる人たちにも、享受してもらわねばならない。だから、それは新たな社会構築ではなく、「ある」ということの肯定と、そしてそれこそが「普通」なのかもしれない。
我々はそうして凡ゆる差異を肯定する。そしてフェティシズムが異常な性指向、倒錯なのではなく、それは「正しい欲」であると、素直に目の前のものを肯定するのだ。
誰にだって内奥性はあり、その差異はおそらく他者には理解されないものであり、更には自分さえも理解し難いものである。衝動に近い。だがそれが「ある」ということは認めるほかない現実である。その「ある」ものを肯定し続けていく、それは「多様性」である。そして一番犯してはならないのは、寺井のような無知と排斥である。
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