さかしょ

新学期・操行ゼロのさかしょのレビュー・感想・評価

新学期・操行ゼロ(1933年製作の映画)
4.1
講義にて鑑賞。
写実的映画と幻想的映画の一致点とはまさにこの作品。リュミエールとメリエスの二人の道は完全に隔たれているものだと思っていたところに、それは袂を分ち、今に至るだけだと当時の映画を解体したも同然。呪われつつも映画史に於いては決定的な位置にあるジャン・ヴィゴ、奇才である。
支配態勢の色濃いフランス国家、そこにある寮学校とはその社会の縮図とも言えるのではないか。行動を制限され、曲解された健康を求められ、違反するものには「操行ゼロ」。その耐え難い法と権力の中で蠢く存在が子供たちという奔放な存在であること。秩序の束縛に晒されるシーンは無機質で、並べられたベッド、高い柵に囲まれた校庭、行進、合唱、制服......。見ているだけでむずむずとして、子供らが大人の目を盗んでイタズラをする時は、こちらまではしゃぎたくなる。
大きくクローズアップされる教師の顔や、女生徒の相談に乗る校長の姿は、おそらく子供にとっての主観的なものなのだろう。大人たちへの印象は恐ろしさと憎々しさに染まっており、観者の気持ちまでも、子供たちの独立と革命へと参画させられる。
子供たちが反旗を翻し、革命を起こすこの名場面。宙に舞う無数の羽毛と子供たちの反理性的な運動はまさに「幻想的」である。秩序が無秩序になる時の画。つまりは社会や国家といった現実からの逸脱である。逸脱した時、画面はまさに幻想或いは超現実になる。
ジャン・ヴィゴはまさに、この現実と幻想の隔たりを、一作の中に、子供たちによって収め、そこで一致させたのだ。
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