さかしょ

ストーカーのさかしょのレビュー・感想・評価

ストーカー(1979年製作の映画)
4.1
我々は部屋に辿り着くまでに、何を失っていったのか。
一つはこれまで歩いてきた道を、一つは荷物を、そして一つは武器を、我々は部屋に辿り着くまでに失い、或いは捨ててゆく。
それはある意味で、神聖なゾーンにおける文明の放棄とも言えるだろう。
方や自然科学という現代社会の真理を、方や芸術という現代のソフィズムを。はじめこそ多くの文明と自我と、希望とを抱いて、広大な自然のゾーンへと足を踏み入れたが、次第に彼らは持ち寄るもの全てをかなぐり捨て、舞台はあの、部屋の前に広がる無味無臭で無機質な波打つ砂場へと向かわれる。
あれ程映画史に残る名場面だと聞き、期待を高めていたこのシーンがこんなにも無であるとは。はじめてこの画を目にした時には驚きあきれた。映像はこんなにも美しいのに、心は踊らない。いや、私もまた、何か一つの「部屋」に希望を持っていたのかもしれない。その希望を持つという信仰に、無意識に興じていたのかもしれない。私もまた彼らのように、部屋に辿り着くまで、凡ゆる明るい事事を、ゾーンの草原に投げ捨ててきたのかもしれない。
私もまた、現代人であった。
自然科学における真理も否定され、芸術による痛烈な批判も資本主義に吸収され、神秘に対する信仰も根拠のない抜け殻となり、我々にはもう何も残されていない。残されていないまま、我々は部屋の前に辿り着いてしまう。嗚呼、なんて虚しきことか。そしてそれでも二人の愛を確かめ合う姿が、憎くも少し輝かしく見えてしまう。これもまた、ひとつのルサンチマンに過ぎない。
欧米中心、資本主義の思想の蔓延は我々に何を齎すのか。洗脳され尽くした我々は、神秘と相対した時に、それを神秘とそのまま享受できるのか。それを「映画作家」として、芸術家として、現代の批判者として、タルコフスキーは描いていく。しかし彼は、それでも自身が「映画作家」であることを忘れはしない。全てはどう映画がつくられていくか。そこに注がれてゆく。
映画作家タルコフスキーの、渾身の大傑作と見た。我々映画人は、この作品をいつまでも胸に刻んでなければいけない。
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