カルダモン

怪物のカルダモンのネタバレレビュー・内容・結末

怪物(2023年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

自分がどんなふうに見えているのか、自分が一番わからない。自分がどんな立場でどんな属性を持っているのか。大人も子供も性別も関係なく思い悩んでいる。ましてや飾ったり隠したりするのでいよいよ自分がわからない。だから自分を定義してくれる言葉を求めたり、正体がわかるモノに生まれ変わりたいという願望が生まれるんだろう。

「怪物だ〜れだ?」って遊びが象徴的で、微かな記憶の中でやったことがあるようなないような。怪物だーれだ?とは呼んでなかったと思うけど。参加者それぞれが自分に見えないように頭にイラストのカードをつけて、質問と答えを繰り返して自分のイラストがなんなのかを当てるゲーム。あれって自分だけが自分の正体をわかっていないという不思議な感覚を味わうと思うのだけど、「ぼくは無機物ですか?」とか「飛びますか?」とか。あるいは「あなたは固いです」とか「あなたはミドリ色です」とか漠然としたやり取りで進んでいき、自分が何者かがわかったタイミングで「私は◯◯です」と宣言する。相手の顔色を伺い、言葉のニュアンスを捉えながら自分を固定していく。それはもしかしたら社会と同じ構造を持っているものなのかもしれない。

自分が何者であるのか決定してしまう言葉の威力。言葉は物事を整理して安心を与えてくれる反面、呪いのように属性をあたえられた瞬間にそこから動かすことは難しくなり、本来なら言葉では言い表せられない解放されたものであるはずなのに、わざわざ細分化してしまうことで雁字搦めにしてしまう。SNSで日常茶飯的に交わされている無数のやり取りのようにも思えて、ネット人格などを考え始めるといよいよ言葉なんぞ捨てて、めくらめっぽうに楽器でも鳴らしたくなる。校長先生や麦野湊くんが音楽室でラッパを吹き鳴らしたように。

それでも人間は言葉からは逃れられない。
誰かがいるから自分がわかる。言葉を介して相手を知る。自分を伝える。怪物だれだのゲームのように。哲学的というと大袈裟だけど普通に生きていて自分てなんだろう。みたいな気持ちを思い出す。そんな映画だった。

それから、どなたかがレビューでも書いていたように私も『銀河鉄道の夜』を連想しました。劇中で湊くんと依里くんはやがて宇宙にビッグクランチが起こり、収縮して時間が逆転、生まれ変わるんだと話しているけれどジョバンニとカムパネルラの姿と重なって、思わず彼らの行く末を案じておりましたが。。。石炭袋ではなくビッグクランチなのは救いかも。二人揃って線路の橋を越えて行くしね。

子供、母親、先生。同じ時間軸を3つの異なる視点で捉えて、真相がどこにあるのか見えなくなっていく、あるいは真相が見えてくる『羅生門』形式。加えるなら映画を観ている我々外野の目がいかにあやふやで、先入観にあふれているのかという視点で、自分自身が時々ハッとさせられる場面もありながら。正直、序盤の演出については悪意がありすぎて感情を誘導されているような気にもなりイライラ、はっきり悪として見せているので、人によって見え方が違うウンヌンでは片付けられないだろう。角田の使い方も03まんまでコントにしか見えないところも引っかかるがそれは置いといて。
同じものを別の角度から見たり前後を切り取ったり。映画ならではの編集で観ているこちらの感情を揺さぶってくるので、構造自体がSNSメタファーのように感じられる瞬間もありつつ。カンヌでは脚本賞を受賞していたけれども、これは編集と撮影もワンセットだと思う。正直、好きではない。

怪物に見えるモノの皮を一枚一枚めくっていくと見えてくる。子供だけの、大人だけの、大人から見える子供の、子供から見える大人の、子供同士のあれやこれ。

ほぼ前情報ゼロ状態でふらっとレイトショー。列島を襲った大雨や過ぎ去って晴れた6月3日土曜日、この映画でも大雨が描かれていたので現実とシンクロした。