砂場

怪物の砂場のレビュー・感想・評価

怪物(2023年製作の映画)
4.2
クィア・パルム賞を受賞した時に、批判も目についた。クィア批評、映画批評の久保豊氏が論考を書いていた。

”映画という極めて異性愛規範的な視聴覚装置が初期映画の頃から100年以上繰り返してきた、性規範から逸脱するとされる者への制裁(死や逮捕、裁判などによるスクリーンアウト)のイメージを現代において、しかもとくに子供たちの経験を通じて再生産する必要があったのか。”

↑引用箇所が久保氏の主張の中心のようだ。二人の少年が死という制裁によって終わる(ように見える)ことが、元々異性愛規範的な映画という産業において、その構造を強化するのではないかと批判している。
ちょっと難しくて何言ってるのかわからないところもあるが、クィア批評の専門家としては、クィア描写視点で映画を斬るとそう見えるのだろう。

また是枝監督が本作は「LGBTQに特化した作品ではなく」と語ったのも言葉足らずだし、もっと是枝監督や脚本の坂元氏は性的マイノリティの歴史について勉強した方がいいよ、、ということも久保氏は述べている。

専門家として真摯な論考なのはわかるんだけどなんか違和感があり、それはなんなのか考えてみたい。是枝&坂元の構想としては少年期の葛藤がまずあったのではないか。それはこの世界の成り立ちだったり、親ってなんなのか、先生って、、まあそういういろんなセンスオブワンダーな中に性の不思議もあったのではないだろうか。それを言いたかったのが「LGBTQに特化した作品ではなく」という発言だと思うが、性的マイノリティ側からはLGBTQ軽視とか、不勉強とか、言われてしまったのだ。

思い出すんだけど、高校時代にこのような”男子”がいた。変わった子だったけどいじめも受けず、ある種面白い人のような感じで普通にクラスに溶け込んでいた。当時はテレビでもそうだけど当然LGBTQという概念はなかった。でも”オカマ”とか自然にちょっと面白い人として受け入れていた気がする。まあそのちょっと面白いっていうのが差別的視点と言われればそうだ。

その後現代になると欧米からLGBTQという形で概念化がなされ、理論や言説が整備された。差別の構造を見える化し、権利のための闘争があった。そのプロセスでは日本は遅れているとされた。
どこかで理論化は必要だったのだろうね、、権利のための闘争もリスペクトする。ただ、高校時代の”彼”を周囲は人として自然に受け入れていたのはなんだったのかと思い出す。理論とか闘争はそこにはない、ただのクラスメートなのだった。

久保氏は、制裁を課すようなエンディングを批判しているが作品の演出にまで口を出すということだとしたらLGBTQの理論化がめんどくさいと思われかえって新たな差別を生んでしまうのではないか。理論とか闘争とか関係なく普通に人として悩んだり、喧嘩したりする様子を描いたこと、、これはこれでいいのではないかと思う。

久保氏は”性規範から逸脱”というけど、是枝&坂元は別に逸脱とは思っていないのではないか。そんなこともあるよね〜的な少年期の葛藤だと思っているのではないか。”性規範から逸脱”なんて言っちゃったら余計に規範が強化されちゃう気もする。まあ是枝&坂元が最先端のLGBTQ理論で武装していないことが不用意さを引き起こしたのかもしれないが、そこまで批判されるような映画とは思わなかった。

怪物は誰かというと、理論というものが怪物なのかもしれないね
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