
昭和20年敗戦によって復員した広能昌三等一団の若者たちはうっ屈した青春を暴力に叩きつけて、戦後の荒廃に挑み、山守義雄を親分として広島県呉市に一家を創立した。老かいな山守の才覚と広能たちの命を賭けた斗いによって、山守組は呉で一大王国を築くに至ったが、権力の拡大につれて内部の分裂が始まり、広能も山守に盃を返した。そして時の流れとともに組織はまた、次々に戦いの種を撤き、多くの若者たちの血が流された。38年、市民社会は秩序の破壊者である暴力団に批難の目を向け始め、警察も全国的な暴力団壊滅運動に乗り出していた。しかし広島市の中心街では、なお東西に二分された暴力団が正面から対決していた。(C)東映
昭和41年。「広島抗争」は、警察による「頂上作戦」で終結したかにみえた。広能は網走刑務所に収監され、山守組最高幹部・武田が広島ヤクザたちに大同団結を呼びかける。政治結社「天政会」 として統…
>>続きを読む昭和43年、広島。関東同志会の広島進出に対し、県下の暴力団は一致団結してこれを撃退。殺人を犯した大西組幹部・神野は8年の刑に服した。やがて県下の暴力団は統一され、神野の兄弟分・北条が会長に…
>>続きを読むアメリカ占領下の日本。河上純一は女性に乱暴しようとしたGIを傷つけ、懲役4年の刑に服した。出所後、彼は仲間を集めて河上組を結成。町を仕切る関屋一家を壊滅させ勢力を広げようとする。これをきっ…
>>続きを読む昭和25年秋、山守組若衆の三好(菅原文太)は土田組組長の殺人未遂で刑務所へ。この事件をきっかけに山守組は呉に君臨することになるが、同時に3つの派閥の対立も生まれる。山守組組長をバックアップ…
>>続きを読む荒谷政之は、少年時代に石岡博の子分として博徒の世界に足を踏み入れた。兄貴分の大松義寛に目を掛けてもらいながら若中にまで成長する。朝鮮戦争勃発直前、山辰信男と山辰組は広島で勢力を伸ばし始めて…
>>続きを読む3流紙の記者・関則夫は阪鉄社長の稲田が男性歌手とホモ関係にあることを掴むが、その記事は没にされてしまう。腐った関はネオン街を飲み歩くうち、新宮会の組員・木暮と知り合う。木暮は関から聞いた稲…
>>続きを読む1998年、韓国はアジアを襲ったIMFの経済危機に見舞われていた。特に打撃を受けた港湾都市の釜山で、若く企業家肌の麻薬密売人サンド(リュ・スンボム)は、記録的な利益を上げていた。釜山の麻薬…
>>続きを読む明治末の柳橋。芸者・鶴次はその美貌と男勝りの侠気とで評判を集めていた。そして、その父・河岸政は鳶職のに組の副組頭で、この辺り一帯の町内頭だった。何故、鶴次が芸者になったかと言えば、末を誓い…
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