あきらむ

君たちはどう生きるかのあきらむのレビュー・感想・評価

君たちはどう生きるか(2023年製作の映画)
3.9
知人に誘われて鑑賞。

丁度その一週間ほど前、私は平日横浜の某喫茶店にいた。うつうつとした気分でいたのだが、喫煙談笑中の中年女性ふたりが介護の文句を言っているのを聞きたくもないが聞こえてしまうので、聞いていた。ほんと、もうっ、はやくしんでほしいんやけどな~、ははは~とのことだったので、そうか~と思っていたら、突然、そう!見たんよ~アレ、すっごく良かったわ~、と突然話題が変わって、「君たちはどう生きるか」という映画を見たという。私はしばらくの間メディア断ちをしていたため、信じられないことに”ソレ”が何か知らんかったわけだが、一介の映画好きとしては、ネタバレは絶対聞きたくない、見るにしろ見ないにしろ、だから、意識を手元に集中して、全てを遮断しようとした。

あれはね~私はすっごいよかったんけどね、隣に居た男子高校生たちは意味わからんかったな~って口々に言って出ていって、確かにあれは考えさせられる、見る側に考えさせる映画だから、今の高校生じゃそうかもなぁという気がした。私もなにがいい、ってちゃんと言葉にできないんだけど、良かったんだ。

中年女性も見て、男子高校生も見る映画って何。

昨今の特に日本映画は、大体ターゲット層が固定されているから、男性高校生の集団と介護疲れした中年女性が観に行く映画って相当変だぞ。そして私は、この映画を存在を知るのである。で、街中によく見ればそういうポスターはられまくっていて、私だけがこの世界の部外者であった。ただ、高畑勲が敢えて宣伝しない方式をとった(ジブリの糞驕り)らしいため、余計に情報が無かったのである。だから、この介護疲れ喫煙中年女性二人組、そして知人の誘いが無ければ2000%見ていないし存在を知らないまま、数年後義務的に鑑賞していたに違いなかった。で、意識を散漫とさせ、家でだらだら見てた場合、全く内容が頭に入ってこない系の映画だったので、劇場で見れて良かっただろう。

私が勝手に名付けた映画ジャンル、オナニー映画というものがある。監督は超気持ちよくとっただろうな~、利権とかもう、関係なくよく撮れたのかな~ってのが伝わってくる映画。それが見ていてる側と合致すると、互いに気持ちがいい~ところまで昇っていけるのだが、オナニー映画と言ってるだけあって、まあ超気持ちがいいものではない。凡才のオナニー映画は、見ているだけで生きていることを後悔する、監督の死を願う、時間の虚無性について考えられる、実存について考える、などそういう効果があるが、天才のオナニー映画はそういうことはない。今回、それを理解できただけでも収穫はあった。ナウシカとかもののけ姫とかも今まで作品も宮崎駿の癖がたくさん詰まっているけど、含みを持たせつつストーリーの骨子はわかりやすいし、物語のセオリーをしっかり踏んでいて、オナニー映画とは言えない。深い語りどころもある大衆映画になっている。

この映画ストーリーの骨子は、はっきり言ってガタガタです。というか、敢えてガタガタにしている。人生というのは、セオリー通りには行かない、ガタガタです。私の人生も貴方の人生も、そうでしょう?違うというならお前は人間か……?とにかく、人間が物語を鑑賞する場合、そこに何らかの救いを、人生のある種の答えを見たいのである。

兎に角寄り道をしまくり、寄り道のすべてに、意味があったり、なかったりする。意味を持たせようと思えばいくらでも持たせられるし、無視しようと思えば無視できる。人生と同じだ。人生のどの部分が自分の今を構成しているか振り返って物語を創ってみるといい。そうすると意味不明な記憶ばかりクローズアップされて、実は自分の大事な部分の1つになっているということもある。

映画の中に、岩戸が二度ほど登場する。岩戸は禁断の場所であり、入ってはいけない場所のわかりやすい表象だ。しかし、人間はタブーを犯す生き物である。神話の構造上、タブーを犯すことが物語の開始点、主人公が主人公である所以となる場合がある。この映画の中で、主人公は沢山のタブーを犯す。行くなと言われた場所へ行く、やるなと言われたことをやる。自分の意志でやる。タブーを犯す前触れとして、作品内の世界観は戦争中であり、大人のエゴに溢れて、家庭内環境も嘘に塗れているという状態がある。そういう危機的状況に陥って、人は、生きるか、死ぬか、を選ばざるを得ない。ここでいう生死とは、実際の生死の話では無くて、生きることに「妥協する」か「抗うか」と、そういうことだ。主人公は抗うことにした。そういう描写がたくさんある。

私はこの映画の中で岩戸の出てくる場面が好きだ。一度目、神聖な場所、廃墟の底落ちていった海の牢の最奥に在る、岩戸。ストーンヘンジ、遺跡、そういったものを彷彿とさせる静かだが、聖なる場所。奥は闇で見えない。何があるかもわからない。人間の中には、普段意識していないが、そういう退避場所、もしくは守るべき場所がある。現実世界にもこれだけ科学が発展しても、神道、穢してはいけない場所がある。神社は、場所によるが、本当に気持ちがいい場所だ。こういう時、自分の中の空洞と目の前に在る最奥の空洞がシンクロしているのだろうと思う。だから、岩戸の場面を見た時も最初、癒しを覚えた。異世界の中で穢れとして描かれているペリカンの大群によって、開かれかけ、穢されかけた場所。結局そこは守られることになる。ペリカンの大群に押し込められる様子は満員電車の乗車率200%、手でもって身体を電車内に押し込めるあの感じもあり、このまま流され、あの奥にとりこまれたら、主人公はきっとペリカンの一部になって自我の中を漂うことができなくなってしまったのではないかと思う。

2回目の岩戸は主人公は実際に中に入ってしまうという禁を犯してボロボロに打ちのめされることになる。意識的避けていた問題と直接向き合う。殴り合いの喧嘩だ。人は弱いので、大きな問題を抱えていても、別の問題にすり替えたり、無かったことにしたりして、結論を先延ばしにして、どこかで歪んでしまうか、破綻する。主人公は、冒険を通して一番目を向けたくなかった事象に直接向き合うことになる。ここでの問題は一番といいながら、複合的な問題である。「母の死」「義母(母の妹)とのギスギス」「父への不信」「世界への不信」「大人への不信」「自分への不信」これらの集合体として、義母が現われる。ここで主人公は闘う。熱い場面だ。これ以前に偽の母親、時間軸の別の母親と交流しているのも主人公の助けになっている。結果として敗北するわけだが、主人公の内面は確実に変化を遂げて、本人の中での戦いには勝利している。そして中に居た義母、この存在が主人公だけに義母に見えるのか、真実の義母なのかは描かれていない。義母がその岩戸に居ると案内するのは全員主人公の血縁者であり、分身的な人物でもあり、義母自体も濃い血縁にあるため、幻想の可能性もある。もしも、主人公にだけ見える義母であるならば、その後の義母の不自然な早期和解は割と簡単に理解出きる。本当の義母だった場合、拒絶しながら、主人公とは反対に、勝利しながらも内面では主人公の思いに折れて、和解したとも考えられる。

義母視点にたってストーリーを考えた場合、義母は、主人公に増して、世界全てを拒絶している。冒頭では主人公の葛藤だけに主に焦点が当てられていたため、義母の葛藤や闇の部分が見えにくい。これは彼女が大人だから、そういう描き方をしている。大人は弱い部分を隠すのが巧妙だ。それも自分自身に対してはもっと巧妙になる。

子どもは人生という冒険の中で自分の意思さえあれば次々に抗える。でも、大人になってしまうと、どうしても、自分の意志ではどうにもできないものに、抗えず、籠ることしかできなくなってしまうこともあるのだ。だから、彼女はどこまでも潜る。おそらく主人公が来なければ、現実世界でも、死んでいた。それほど彼女の闇は深かった。作中で何度か明示される世界の終わりの1つは、そういうことだ。だから、拒絶しながらも、主人公の訪れが、彼女を暗闇から助け出した。でも、その闇については決して人に、語らない。大人ははっきり語ることができない。

子どもの世界は、大人からすると不可解、意味不明な塊に見えるし、そもそも人生自体が意味不明である。大人は何となく結論をつけたがるので、勝手に子ども世界を自分の文脈で解釈してあーだこーだいうし、私も今、岩戸についてだけで、これほどあーだこーだ自分にあてはめて書いてしまっている。こういう深み、宮崎駿は子どもの心、無垢な部分、大人のどうしようもなさ、そういうのを描くのが上手いのが天才と言われる所以なのだなと思った。

そういわけで、世間では「考えさせられる映画」とか言われてそうな気がするが、考えたい部分だけ考えて、ああ、自分のは子どもの部分があるのだなとか大人になってしまったなとか癒されるなとか思えばいいと思う。宮崎駿もそういう気持ちで、様々な断片的な要素を混ぜ、子どもの世界を描きたかったのではないか。