keith中村

コット、はじまりの夏のkeith中村のレビュー・感想・評価

コット、はじまりの夏(2022年製作の映画)
5.0
 けだし傑作。
 
 辛いことと幸せなことの匙加減が絶妙。
 邦題が「ロッタちゃん はじめてのおつかい」にそっくりなんで、あんなテイストの映画かと思ったら、だいぶ深刻でした。
 その「ロッタちゃん」がリバイバル上映するんですね。今日、本篇前に予告が流れたんで、ちょっとニヤってなった。
 
 ロッタちゃん、いや、いきなり釣られてるやん、俺。じゃなくてコットちゃんは確かに不幸なんだけど、いわゆる「悲劇の主人公」などといったドラマティックな不幸じゃない。
 あれくらいのダメ親父なんて、そこいら中にいるでしょ?
 学校での扱いとか、なんなら私だって味わったことがあるレベルだ。
 決して絶望的な不幸ではないのね。

 そんでもって幸せのほうも、あのくらいの幸せは、世界中にそこそこ転がっているだろう。
 
 でも、そこがいいんですよ。
 一般にイメージされる「映画」では取り上げないレベルの設定とストーリーなんだけど、ぐいぐい惹きつけてくる。
 「大きな映画」を観る時って、「感受性のボリューム」を絞ってるんだよね。だから、ホラー映画で人が死んで笑っちゃうことがある。
 逆に「小さな映画」では「感受性のボリューム」をぐいと廻して大音量にしてる。だから、ちょっとしたことでも心が動く。
 
 ちなみに、俺さあ、この映画ってものすごいハッピーエンディングだと思いましたよ。
 だって、コットちゃんはこれからも毎年毎年あの夫婦の元に行けるわけでしょ? 多分。今回は母親の出産というイベントがあって、大家族のうちの一人分でも手がかからないように、って理由があったわけだけど、来年からもコットちゃんが「行きたい」って言えば、そりゃ家のことも楽になるし、あのお父つぁんなら喜んで連れてってくれるよ。
 
 邦題の「はじまりの夏」はそういう意味だと私は解釈しましたよ。
 この夏がはじまり。来年も再来年も、行ける。
 もう、帰りの電車で、「おじさん、おばさん。大学生になったよ~」とか、「就職したんで、はじめての給料で、はい。これおじさんとおばさんにプレゼント」なんつってるコットちゃんを想像して、それはそれは幸せな気持ちになりました。
 
 今、テキトーに「帰りの電車」なんて嘘ついたけど、ほんとはヒューマントラストシネマを出てエスカレーター乗った途端に想像した。秒で想像した。1階に着くまでに、そんな幸せエピソードを余裕で10個以上は思いついた。
 煙草吸おうと、そのまま交通会館の喫煙所行って、一服してる間にさらに10個以上思いついた。
 
 さてさて。
 コットちゃんは子供だから、自分が着せられてる服が男物だってことも、部屋の壁紙が明らかに男の子仕様なのも、意味がわからない。
 観てるこっちは分かっちゃうから、はらはらするんだよね。
 アイリンとショーンの何気ない態度やセリフに、「やっぱそうだよね」なんて思っちゃう。
 その「秘密」はコットちゃんには、「日本でもそこら中にうようよ存在する噂好きおばさん」によって告げられる。
 
 とはいえ、当然夫婦の子供がどう亡くなったかはここまで我々も知らなかったわけです。だから、この瞬間、前半でショーンが「勝手にいなくなるな!」ってコットちゃんを叱る語気の強さのほんとうの意味が解って、ここはちょっと泣いちゃいましたね。
 
 この夫婦のキャラクター造形も、ベタ過ぎるんだけれど、大好物。
 最初いくら不愛想に見えても、アイリンが選んだ旦那さんなんだから、ショーンはいい人に決まってるじゃん。
 「赤毛のアン」や宮崎アニメでさんざん見たパターン。でも好き。いいよね。
 本作はシチュエーションが似てるから「魔女の宅急便」をかなり彷彿させました。
 
 終盤に起こる本作最大のサスペンスは、それが深刻な結果になるはずがないと確信しながらも、「噂好きおばさんは肥溜めって言ってたけど、ほんとはこの井戸(泉かな?)だったんじゃねえの? アイリンが『深いから気ぃつけてね~』なんつってたのももしや伏線か?!」とちょっとぞわぞわしました。
 まあ、あれくらいの体験は私もやっちゃったことある。それで済んで良かった良かった。
 
 それが元でコットちゃんは風邪を引いちゃうんだけど、ラストのくしゃみ2回は、あれは風邪のぶり返しなんかじゃないでしょ? あれは絶対ハウスダストだよ。テーブルだって汚かったし。
 ずっとその環境にいたコットちゃんには耐性が付いてたんだよね。それがアイリンとショーンの掃除の行き届いた家で過ごす間に落ちちゃった。だから、ハウスダストにくしゃみしちゃったに決まってる。
 
 コットちゃんが「自分ちの汚さ」が恥ずかしくてテーブル拭う気まずさ演出がよかった。アイリンとショーンも居心地悪そうにしてるし。ほかの子供たちは挨拶すらしないしね。ああ、気まずい!
 
 ラスト、"The Quiet Girl"がちゃんとお礼のために駆け出すところもベタだけど泣かされる。
 途中に挟まれる回想シーンは要らんと思ったけど。あ、でもショーンがくれたお菓子のところは元のショットじゃなく、コットちゃん視点の別撮りだったから、これはよかった。
 
 本篇の9割くらいがアイルランド語の映画なのに、最後の「ダディ」は英語かよ! 英語圏の観客に日和ったか? なんて失礼なことを考えてしまったのですが、帰ってきて調べたらアイルランド語でも「ダディ」でした。
 ただし綴りは「daidí」。失礼なこと考えてごめんなさい。
 ちなみに、「Cáit」が「コット」だし、「アイリン」は「Irene」かと思ってたら「Eibhlín」だって! その「bh」って何なの? 要る、それ? アイルランド語って難しそう……。
 
 最初のクレジットに原作小説のタイトルが「Foster」って出たので、序盤はコットちゃんがあの大家族のところに里子に来た女の子なのかと誤解しかけてました。扱いが酷かったしね。
 単語の意味としては、短い間であっても養育するのが「foster」なんですね。アイリンとショーンが「foster」なのね。
 
 「疑惑の影」のレビューに長々と書いたけれど、私は父の弟である叔父さんが大好きだったんだよね。
 アイリンとショーンは、ママの従姉妹とその配偶者なのかな。まあ、関係性は違えど、私としては叔父夫婦のことを思い出さずに観ることはできませんでした。とことん優しかった。
 叔父は70手前という若さで亡くなっちゃったんだけど、最初に書いた「コットちゃんの未来妄想」で何十年か後のそういう場面を不意に想像しそうになって、気合で捻じ伏せました。コットちゃん、いつまでも幸せにね!
 
 エンドロールで自然音を流す映画はたまにあるけれど、本作は劇伴と自然音の両方でしたね。
 鳥が鳴いてるけど、あれカッコーでしたよね? 違った?
 カッコーといえば托卵でしょ? 別の人ん家に、いや、別鳥の巣か、に自分の子供押し付けるじゃん?
 いいねえ! 見事な隠喩じゃないですか!