TnT

1PM-ワン・アメリカン・ムービーのTnTのネタバレレビュー・内容・結末

3.6

このレビューはネタバレを含みます

 そういえばカンヌにて公開されるゴダール未完成の作品の予告編が上がっていた。映し出されるのは生前”脚本”と言っていたものだが、画像や写真、ドローイングなどで構成されているのがわかる(https://twitter.com/NotebookMUBI/status/1655209250149351425?s=20)。ゴダールから影響を受けても生前ゴダールの立ち位置を継承できた者がいなかった。亡き今、これは後世への委託となるのか、それを望まれた未完だったのか。

 そんな撮られなかった映画の一つに今作も挙げられるだろう。ゴダールが撮るだけとって放棄した映画を、ペネベイカーがまとめ上げたものが今作。堀潤之が今作を「作られなかった映画のメイキング映像」と書いていて、そうして読めばなんとなく全貌が掴めるだろう。

 まず、本来どんなものを作りたかったのかという事について。ひとつは現実シーンと虚構シーンを並べることだった。そして、異様な反復へのこだわり。現実シーンの会話を虚構で演者が再び再演するのだ。異化効果を狙ったのだろうが、そうなると非常に退屈極まりない内容になってしまうだろう(という今作も実際に同じ台詞の反復と長い会話が退屈だった…)。また、モノクロ撮影は簡単だという理由で色へのこだわりが特に無かったことが驚き。しかし、ゴダールは「ありきたりの映画」(1968)以降にモノクロで撮影はしておらず、今作ぐらいがモノクロという選択肢が最終項に残る最後ぐらいだったのではと思われる。ちなみに時系列的にいうと今作の制作を放棄したあとイギリスにて「ワン・プラス・ワン」を作るわけで、今作での思考が実質引き継がれたのが「ワン〜」なのだと思う。また、言語を言語として演じるのは可能だが、Jefferson Airplaneの演奏をどうフィクションに置き換えるかはゴダール的には決めかねていたようだった。「ワン〜」でのThe Rolling Stonesの演奏とフィクションのみによる構成から、今作に如実に放棄されたノンフィクション性が浮かび上がる。「ワン〜」はつまり今作の、ゴダールが撮影しないで語るのみで終えたものを補う立ち位置といえそうだ。ちなみに、教室でのシーンは役者と子供たちがリアルタイムで盛り上がるのに対し、ゴダールは役者の裾を常に引っ張って制御しようとするも上手く制止できていなくて、ちょっとあたふたしてた(カメラマンはその盛り上がりを収める喜びでもって満面の笑みだったし、自分もなかなか面白いと思って見たのだが)。

 わかったこと。ゴダール、そこまで厳しい指示を出さず、役者から出る言葉自体は初々しいものであってほしそうなこと。基本は動きだけ言って、あとは遠隔で指示出したり、その場でちょっと口添えしたり、機械的な動作であとは役者に任せたり。そこには反応があるわけで、しかし感情とかの演出はないのだ(彼が好きと公言した溝口は役者に対し「反応してますか?」とよく問いかけることがあったそうだが、影響あり?倣ってただけで奇しくも似たのか)。それがあの心無い演技に繋がるんだなと思った(笑)。

 ラジオの声を反復する行為、この聞いた物事をそのまま伝播していく人物というのをゴダールは好む。それは当人が咀嚼した声ではない。以前観た「カラビニエ」でもなんの意思もなく戦争に染まる人々がいたように、ならば革命に人を染め上げるのもお手の物という感じだったのではないだろうか。教育というよりも、啓発に近い。最近読んでいる「スピルバーグ論」でも教育的側面がスピルバーグにあると言っていたが、演技をつけるという行為自体に映画作家特有の教育経験が宿るわけだ。その楽しさなり効用なりに気づいたのがこの二人である面白さ、表現は全く反対だが。

 当時の主張。白人の人の議論はかなり混み入ってて結局よくわからなかった。ただ、ブラックパンサー党は割と簡潔に問題とそれの解決への行動が言語化されていた。これだけで、当時の立場がよくわかる、如何に黒人たちに解決すべき問題があったか(逆に白人にそれが無いことも。唯一戦争という敵を除いて)。黒人たちのアジテーションと音楽のパワーを捉えたあのシーンのカメラワークは恐らくペネベイカー節なのだろう。音楽ドキュメンタリーを手がける彼の手腕が発揮され、その場で生み出されてく即興性の緊張感と、それに当惑しつつも撮影したり佇むスタッフの姿まで映しこむ。また、異人種混合の中学校での役者による扇動と、それに応答し、また小学生とは思えない知的で明朗な意見の多さに「革命」を見た気がする(同時にこの時の問題はまだまだ根深く現代に残っていることもわかる)。ここで手渡されたおもちゃの武器を持つのは、その後「中国女」に引き継がれる。ゴダール、子供みたいにありものでなんでも作り出すおままごとの映画作家だなぁと思う。それがちゃんと功を奏すからすごい。作中でゴダールはこうも述べている。「手を加えることだ、芸術は自然じゃない」
 
 「New York wake up, you fuckers! Free music!」
この声とともにルーフトップコンサートを始めるJefferson Airplaneのもう革命を目撃したかのような鳥肌(直前のゴダールの切羽詰まったカメラマンへの指示も含め緊張感あり、またカメラマンのいらんズームの多用からもスタッフさえもが興奮し冷静でないことがわかる)。ビートルズはこれに影響を受けてるわけで、実は今作が元祖なのだ、しかもゴダールが「あの屋上で演奏してほしい」と企画する姿も映し出されている。Jefferson Airplaneの呪術的響きが都会を木霊し、皆が窓から見上げる、それだけでやばい。これ、現代もどこかできるところないだろうか。ルーフトップコンサートの不利な点は、すぐ警察に足が付くことだ(逃げ場なし。いや逃げ場がない社会だから屋上へと向かうのではないか!)。警察に拘束されたあとの威圧的な「Stop the music」の指示。カメラも警察に止められる映像が残っている。この指示は体制の本質とも言えるだろう。映画はだから、音と映像を駆使した、体制を脅かしかねないパワーの持ち主なのだ。

 素材は撮って並べるだけとゴダールが語ったように、素材以外の施しようのない代物だった今作を、なんとかフィルムリーダーとか使ってテンポを付けて編集したペネベイカー、お疲れ様である。ペネベイカーはその愛憎を、ラストカットの口すぼみゴダールのカットを入れる事で表しているのではないだろうか。
TnT

TnT