ryosuke

瞳をとじてのryosukeのレビュー・感想・評価

瞳をとじて(2023年製作の映画)
3.8
 まずは同時代人としてエリセの新作を劇場で拝めたことを喜びたい。賛否両論の声も僅かに聞こえてきており、期待しすぎてはいけないと自分に言い聞かせて映画館を訪れた。やはりというべきか、『ミツバチのささやき』『エル・スール』の輝かしい達成には遠く及ばないものではあったのだが、かといって凡作と切り捨てる気にも到底ならない作品であった。勝手ながら、『ミツバチのささやき』(と『雨月物語』)に衝撃を受け、大学時代のモラトリアムの大半をスクリーンの闇の中で費消してしまった自分にも正面から向き合ってくれたように感じる。
 ラストカットの演出に強烈な遺作の匂いを感じさせる映画ではあるのだが、できれば、もう傑作でなくてもいいので、まだまだ撮り続けてほしいと思う。どんな映画でも必ず劇場に赴くので。全然作風は違うが、この前アルジェントの『ダークグラス』を見た際にもそんな気持ちになったものだった。傑作しか撮らない伝説的な監督という肩書きよりも撮り続けることが大事だと考えてもいいはずだ。『マルメロの陽光』は未だに見ていないのだが、これもいつかスクリーンで見られる機会があるはずだと信じて今はDVDを買ったりはしないこととしよう。
 冒頭の劇中劇、窓を開けることによる光の変化、ファシズムと戦った男の登場(やはりフランコに言及される)、写真の中の追憶の人物を眺めながら、『ミツバチのささやき』『エル・スール』のモチーフが未だにエリセの中に生き続けていることにまずは感じ入る。美しく老いたアナ・トレントの現在の姿を見せてくれるファンサービス。フードコートのような場所での会話劇の中、少々不自然な超クローズアップ・ロングテイクで映し出される彼女を見て、やはりエリセにとって特別な女優、ミューズであるのだなと思った。
 特に前半は、かつてのエリセの映画と比べると信じられないほど、機能的な素っ気ない空間を舞台とし、会話劇を効率的に語る切り返しをメインとして構築された映像になっている。しかし、主人公が昔の恋人のやや古風な邸宅を訪れ、(『ミツバチのささやき』のように)暖色の光が画面を包み始めると、やや違った映像が映し出され始める。「あなたは今も映画監督よ」と評価される主人公の想像の映像。崖に置かれた靴、思索と共にヘッドライトの点滅が夜の闇を突き刺しつつ朝とオーバーラップするカット、フレーム内フレームに太陽を配置しながら、存在しないキッカーからゴールを守るフリオ。古い恋人に渡した自作のサインのフレーズとして使われる太陽、主人公とフリオが水兵時代に乗り込んだ船の名前は陽光。やはりエリセは光の映画作家なんだ。
 『ミツバチのささやき』『エル・スール』の双方に登場人物が映画を見る描写があったが、満を辞してエリセが披露する新作も映画についての映画なのだった。主人公がバスの中でパラパラ漫画の要領で(実のところそれが映画のシンプルな仕組みなのだ)列車がホームに入る連続写真を捲る。その描写が、映画史の源流である『ラ・シオタ駅への列車の到着』と、映画史における最大の達成の一つである『ミツバチのささやき』の中でもとりわけ素晴らしい長回しとして思い出される列車の到着、そして現在上映されている本作を一本の線で繋いでくれているように思う。
 再会のシーンを、まずは顔が不明瞭にしか見えないロングショットで処理する慎ましさも好感が持てる。遠くからフリオを見つめつつ説明を聞く中で、入居者ではないが手先の器用さで居場所を得ている現在のフリオと、収容所時代に犯人ではないのに捕らえられ、器用さで重宝されたかつての彼が重なり、彼の体に今でもタンゴが染み付いていることが分かり、予感が確信へと切り替わっていく。風にはためくシーツの間をカメラが前進し、白い漆喰を塗る二人の男に接近するショットが特に素晴らしかった。他方、(『ミツバチのささやき』のように)このような詩情溢れるカットのみで映画を構築する偉業に必要な体力はもうエリセには残されていないのであろうことは少々寂しく思うのだが。
 『エル・スール』は失われた父を追って娘が旅に出ることで終幕する物語であったが、本作で再度娘の役を与えられたアナ・トレントにも同じ役割が求められる。遂に父の仮住まいに入ろうとする際の緊張感。「私はアナよ」というセリフが『ミツバチのささやき』のラストのセリフの響きと全く同じであることを直感した瞬間の感動!こんなのはファンにしか通用しない感動かもしれないが、それでも......。安直にエモーショナルな再会をさせたりしないエリセはやはり信用できる。娘だと分からず、ベンチに座りながら男女の距離まで接近しようとしているようにも映るフリオの姿に不道徳なサスペンスすら感じるのだから。
 正直全体として冗長であることは間違いなく、エリセへの敬意もあって問題なく見られていたというところもあるのだが、ラストシーンのあまりの素晴らしさにやはり特別な作品なのだと思わされた。このラストには、映画ファンを相手にする場合には『ニュー・シネマ・パラダイス』のラストのようなズルさがあるともいえるかもしれないが、それでも良いものは良い。閉館した映画館が再度役割を与えられ、我々観客は、映画がドライヤー『奇跡』以来の恩寵をもたらすことになるのか、その実験現場に立ち会うことになる。
 多くの人に見られることを想定していたはずの未完の映画のために、映画監督としての姿を取り戻した主人公(エリセの姿が重ねられているはずだ)はごくごく少数の観客に向けて舞台挨拶をする。そして、監督らしく観客の配置を「演出」する(前の客の頭がスクリーンに被らない配置なのにも何となく映画愛を感じる)。劇中劇の失われたラストシーンは、父と娘の再開シーンなのだが、これがフリオとアナの現在と相似形を描く。
 扇子越しに父を見る劇中劇の少女は、正にその父が望んだ「無垢な瞳」の持ち主で、この美しさには50年前にフィルムに刻まれたアナ・トレントの姿を思い起こさせる何かがある。最後に記憶の中の娘の顔を見るために、花瓶の水で無理やり化粧を拭き取ろうとする演出も素晴らしい。エリセはやはり、かつての自作と同じように、映画を見る者の顔に焦点を合わせる。フリオは、自らに視線を向けてくるスクリーンの中の過去の自分と対峙することを強いられる。上品なエリセは過剰な奇跡など見せはしない。劇中で言及されるドライヤー『奇跡』だって、奇跡よりもそれを信じる者の顔が美しい映画であったはずだ。静かに「瞳をとじ」る描写と、フィルムが回転を止める音によって、待ちくたびれた我々に巨匠が授けてくれた新作は終幕する。
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