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哀れなるものたちのAirconのレビュー・感想・評価

哀れなるものたち(2023年製作の映画)
3.7
「女性の性欲や自由」を肯定していることは良かった。
ただそれが「子供期+保護者付き冒険期」→「自立後」→「男性の支配する社会」、という映画の流れの中で、結局はそれらを否定する「被害者的フェミニズム」をも肯定する形であり、「女性の主体性や自由」とのジレンマとしては描かれていなかったので、良いとこ取り感はあった。
具体的に、自分的には中盤の娼婦やって自立している状態が最も自由だと思ったのだけど、そしてその前の保護者付きで他人の金で冒険とか言っている状態はまったく自由ではない、親の金で海外留学してる女子大生程度だと思うのだけど、映画の描き方はまあまあ微妙で、その前半のことも「男性の所有欲」と「自由を求める純粋な女性」みたいな描き方っぽい感じもしたし、後半は「有害な男性の支配する男性社会」の象徴として、軍に所属する元夫が出てきたわけだけど、その「男性社会の被害者としての女性」という側面こそがまったく自由ではない、「自分の責任の逆」なわけで。

つまり、真ん中の「女性の自立、責任を肯定する従来のフェミニズム」の前後に、「保護されながら自由を求め文句を言う」と、「そもそも社会が間違っているせいで私の自由が無いんだ」という、他者に責任を引き受けさせるムーブ(≠自由)があって、そういうことしてると自由じゃなくなるんだぞと。
そもそも「責任を負う」ということが「自由」だということがわかっていない感。


いつも被害者的なフェミニズム映画を観ていると根本から勘違いしているなと思う。
自由は「責任を負えること」「リスクを取れること」に担保されている。
無責任な立場にいて、ハチャメチャにわがままに振舞えることが自由とでも言うのか。
無責任な立場でいられるということがすでに自由ではない。
誰かの保護下にあるんだから。
自分で選択をしたとしても後で取り消せるようにするとか、お皿を割っても怒られない、殴られない、弁償もしない、しかし自由ではない。
誰かが自分の代わりに責任を取ってくれる状況で「女性の性欲や自由」を行使することはできない、必ずその責任を取る人がコントロールする。
原理的にそうで、「自由」と「責任」は言葉の言い換え、同じことの違う見方でしかない。


そもそも「無責任な立場にいてハチャメチャにわがままに振舞える立場」が良いという人も多くいると思う。
そのせいで、「姫の保護的フェミニズム」や「被害者の他責型フェミニズム」が混ざるからわけがわからなくなる。
「良い感じにケツ拭いてくれ」と「自分でケツ拭かせろ」は、実は対立している。


別の言い方で言うと、、そもそも女で何がツラいかって、「資源としての価値」が高いからってそう見られること自体がツラいんだと思う。
損も得もすべてそこから発生していて、それ自体が嫌。
仮にその損なり得なりを「保護」とすると、「保護によって損していることの方が大きいと思っていて、損も得も全部無しにしてほしい派」と、「保護によって得していることの方が多いから、得しているところでは黙りつつ、損しているところだけで文句を言う派」がいる。
本質的には、前者と後者は、「自由」と「安心(リスク)」のプライオリティが逆なんだと思う。
別の言い方で言うとそういう対立。
だけど、ここで言う損と得は同じものの違う見方であって、切り離せないので大枠としては、どっちも減らすかどっちも増やすしかない。
さっきまでの話も、「自由」と「安心、安全」がトレードオフだ、という話でもある。







『バービー』と比較すると、話はつまんなすぎるが主張は面白い『バービー』とは対照的で、話は面白いが主張はつまんなすぎる「今のフェミニズム」で、醜い男性性に支配されている社会と言う『哀れなるものたち』。
(今回は省くけど、話はホントは怖い~~童話みたいな感じで面白かった。映像も綺麗。)

「無謬の女性」と「醜い男性性」の羅列といういつもの構造とも言える。

「無謬の女性」関して、漂白されている時点で主体性とは?ってなる。
女性が主体性を持つと100%悪いことしないならまだしも、そんなことは無いことはわかっているので、女性が悪く描かれない時点でそれは保護的であって、主体的ではない。
そういう描かれ方自体が女性の自由度の無さを象徴しているはずなのに。
そういう点では「本来のフェミニズム」としては、『パーフェクト・ケア』とかの方が全然ちゃんとしてる。
女性だって自己責任で悪いこともする、そういうことができて初めて自由と言える。

今回は「性欲」に関しては良い感じに自由だった。
ただ、もっと男にキレられるとか殴られるとか「痛い目」見てもいい。
わからなくても責任を取らされるのが自由なのだから、「人を傷つける」とか、「他人と自分は感じ方が違う」とか、そういう世界の多様性に対してあまりにも独善的なのに成立していた。
まだまだ女だから周りが大目に見てる感。

例えば、大切な人が(性病になってでもなんでもいいが)死んでしまうことを恐れるという普遍的な愛情という側面で捉えてもいい感情を、「嫉妬」や「所有欲」として全否定していいのか。
この映画でベラの生き方に共感して、ダンカン気持ち悪いとか思ってる人は、その裏返しを食らっても平気でいられるのか。
(関係ないけど、未練がましい男って定番だけど、「その子がどうしても好き」という人が本当にそんなにいるのか疑問。そういう風に見える男は単に次の相手がいなそうだからそう振舞っているんじゃないかと疑っちゃう。普通いろいろな人と付き合いたいでしょ。)

そして、「理解のある彼」がすべて受け入れてくれる展開も、それは逆に彼がオブジェクトとして主体性を奪われていないか?という。
女性に都合の良い抑圧は肯定しているみたいで気持ち悪い。
ひたすら言いなりでペットみたいに可愛くされて汚くなったら捨てられそう。
マッチョ男性の死闘の後に現れるパツ金美女みたいな主体性を奪われ客体化された存在として描かれる女性が問題なんじゃないの?
(女性の欲にそのまま答えるとイケメン宦官枠になる。あとやたらデカい、肩幅も異様に広い優しそうな微笑みの男もあるある。)



とにかく、女だからってタクシー移動したいわけじゃなく自分の足で歩きたい、足の筋肉付けたいって人がいて、その人のためのものが本来のフェミニズムという認識。
アメリカのキャリアウーマンが出産してすぐに復帰するのも、バリバリの競争をしたいし、勝てる実力があると思っているから。
保護とか配慮が自分への負荷を減らす代わりに筋力をつけるチャンスも失わせることがわかってるから使いたくない。
「休んでいても同等の~が得られるように配慮しろ!」とか言っても、自分の経験とか時間なので代替不可能なこともよくわかってる。
休んでても知識が増えたり仕事がうまくなっているわけがない。
自分で歩かないと筋肉は付かない。

ベラもその感覚を持っている感じがあって良いのだけど、「でもやっぱり女性は被害者ですよね」と、良かれと思って言ってしまうランティモスのチン騎士感が、本当にわかっていないタクシー呼んであげちゃう感じで残念。。。

そもそも自由や多様性は、他人のそれはもちろんリスクだし、自分のそれすらも(集団内で排除される懸念など)リスクであって、自分の「安心」を毀損する。
もちろんそれは度合いの話、閾値の話ではあるんだけど、脊髄反射的に「リスク」というだけで嫌がる人は多いし、「自分にとってのリスク」ゆえにそれを抑圧する権利があると直感的に思ってしまう。
だから、安心(リスク忌避)のプライオリティがより高い人は(自分自身に対しても)抑圧側で、とくに日本ではそういう規範だとか他人に迷惑をかけないことが重視される傾向は強いと思う。

他人の自由にストレスを感じ、自由な他人を「厄介」と捉え抑圧を当然の権利のように強める人たちが、これを見てベラのような生き方を称揚したりもする。
『バービー』のときにも書いたが、「フェミニズム」でも「自由」でも敵は自分なのにまったく自覚がなく、「フェミニズム」も「自由」も大事だと思っている、みたいな矛盾がある。
体感では、日本人のほとんどは無難に村でそこそこの位置にいるのが好きでそっち系はほぼいない。

そうするとトレードオフがあるものは社会では扱えないのかもしれない。
「規範」というものもゼロイチで「目標」をプログラミングする。
もうこの、本人たちの中では合理的だと思っている「正解」な行動が単に、時間軸を入れると飛び込むペンギンの中央値を目指すだけのゲームでしかないのはそうだとしても、この往復はもはやマスレベルでは普遍的な現象な気もするので、そういう無駄な往復をもってして徐々に何かを考え選択できるようになるしかない。
マスレベルでは二大政党制の手のひら返しを諦める、それが最善みたいな。


とにかく、自由な冒険がしたかったら、自己責任で乗る電車を決めるしかないでしょ、という話。
乗ってからあとから嫌だったら返金できる保険に入るなら、保険会社に日数なり、日本国内なり設定される。
だから「引き受ける」ということが重要なのに、それをしたくないは両立しないでしょ、という話。
それにそもそも自由が好きでもないし、自由について具体的にどういうものかも考えてもいないし自分の中での定義もない、
「自由が大事!」って言っているヤツが自由について考えたこともない、何なら自由の敵、みたいな現象についても書いた。
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