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バービーのAirconのレビュー・感想・評価

バービー(2023年製作の映画)
3.7
論点どうこうよりも、ストーリーがつまんなすぎな気も?


主張はかなり現実的で、なんなら割と反(今の他責型の)フェミニズム的な部分が多かった。
クライマックスでのアーキテクトとの会話、「人間が男社会やバービーを作るのは、過酷な現実を乗り切るため。」バービー「よくわかるわ」、これは(今の…)フェミニストには言えない。

この当たり前の社会の共犯関係や必然性を無視するか全否定した上で、「私たちは一方的に搾取されている被害者だ」と言うのが今のフェミニズムっぽいから。
とにかく0〜100まで全部ケツを拭けと。
ケツを拭かせすぎて自分で拭けなくなったことも他人のせいだと真顔で言う。
「拭け」と言ったことも(結果が悪ければ)あれは洗脳だったと言えるようにしたい、みたいな主張を無限に繰り返すのが今のフェミニズム。



マテル社から見た時代の移り変わりと現代を、問題も含めて肯定的に捉えてる感じもある。

オープニングの『ピンク』はそのおもしろいジレンマを表してる。
吊り目のアジア人モデル問題と同じで、ザ・○○問題。
ティピカルという概念に含まれる良いところと悪いところが引き起こしてる。

「差別をしないこと」が「別の差別」になる、差別内トレードオフみたいな構造があって、「いろいろな人種を使う」で「ある差別」をなくそうとしている時に、「典型的な人種はこう」という「別の差別」をしなくては前者が成立しないというジレンマ。
「目がぱっちりしてるアジア人もいるんですけど!」と言いたくなるが、「アジア人は目が細くて吊り上がってるというのがわかりやすいから差別をなくすためにそういう人を選んでるんです!」と言い、「それは差別だ!」と言う。
「違う人」を使うために、「違う人」を使えない。

女とピンクはすでにその論点が消化され、女=ピンクとする方が問題になっているので、露悪的、時代錯誤な歌だけど、「女性の権利を!」とか言うときの「女性」という括りにはすでに女性=ピンク的な決めつけが含まれている。(「ピンク」が解体されたことにより、ピンク的な女性の権利は後退する。)
それは決めつけないと[その差別]が解消されないからというジレンマなのだけど、ジレンマだからこそどっち100%ということはできないバランスの話にせざるを得ないんだけど、いまだにトレードオフの関係が見えていなくて、「両方100じゃないとダメ」と言う主張か、片方の論点のときは100%そっちの肩を持って、もう片方の時はそっちで、という人がほとんど。
客側の事情を見た後はこんな人からお金を取るなんて!と言って、店側の事情を見た後は食い逃げなんて人間のクズ!と言っているような。

ようは、差別反対と言ってその差別が解消されたら新たな差別が発生していて、その犯人が自分だった、、そして自分の中で往復しているのにそのことにまったく気づいていないみたいな構造がある。(必ずしも自分の中だけではないにしても)
そもそも他人事だし、ノリだし、怒っていることや被害者だと言うことに意味があるから。
目的や動機がそうだから、それによって同じように先鋭化、短絡、飛躍も起きる。
これはしょうがない、何かの限界。
大衆レベルでは微調整ができないということは、つまり二大政党制みたいな構造に必然的になる。
(このシステムだと、大衆の空気は180度変わるから、手のひらクルクルしながらのらりくらりと無関心で非誠実な人が生き残るようなセレクションになる気がする。「この限界」が「この社会」を作って「この社会」が「この限界」を作る循環ができる。そして「限界」と言うとネガティブだが「最適」とも言える。)



ケンの存在。
これは男社会の中での女性の反転”ではない”と思った。
女性を取り合って男性同士が争う、そのまま男性の過酷な世界。
反転ではなく女性優位社会(フェミニズム完遂後みたいな)、男が孔雀みたいになってる中国の村みたいなやつ。


シリアスなこと言ってひかれる。(Thoughts of Death)
女性社会の揶揄なのか、少しでも違う、空気が読めないと排除されるという点ではそこまで良い社会にも見えなかった。
ハイヒールに象徴される、「イケてない」「キモい」という評価になることを恐れる。
『変な子を追い出す女性社会の攻撃性』というやつ。
これは男女関係なくこの傾向はあるだろうけど、女子上位カーストのそれを使っての牽制はなかなか強そう。
その部分ではその価値観を作っているのは女性自身であるとは言えるとは思う。
映画で描かれていはいないが、女性社会で同盟関係を作ることに必死になるのはそれへの対応だろうし。
まあでも男女が絡んでくるものに関しては、男女お互いに意識しているだろうから、「させられている」とも言えるし、「計算してしてる」とも言える、させられたの中でも「全然嫌じゃないので利益を見越して素直に従う」から「嫌々」まで内心は180度違うので、かなり判定が難しい部分ではあると思う。
させられた100は論外だとして。
そして、集団からは排除されている「キモいバービー」のところに劣化を疑って相談に行く。


ソーツオブデスからの、ポータルとしてのリップ(裂け目)、なんか「生命」「生殖」に関わってる感。
直前に、「ケンの股間がツルペタ」と関係ないのに話してるし。
セルライトも。
それが最後の婦人科受診に繋がってるのかな。
「人間になる」ということは生殖とは切り離せない感。

「やるべきこと(責任)は両者にある。」
「選択肢はなんちゃってだ。」
現実は大抵そうなんだけど、この辺もフェミニズムの否定感がある。


マテル社の会議が男しかいない。
それで「女児向けの玩具」の会議をしてるっていうのは、一見所謂「取締り役の男女比」的な問題提起に見えるが、割とその問題全般に言える「男しか女児に玩具を作ってあげようと思わないからなのでは?」とは思った。
男はいる物もいらない物も作って、いらない物は淘汰されてだんだんなくなっていく、女児の玩具も作ってみてなんとなく残ったんじゃないかな。
だって、生きていくためには直接はいらない物だし、原始的な社会を創造すると、子供が自分で作るのはわかるとして、大人が作って与えるのは、やることなくなった男がワンチャン作ってみた、くらいの現象に思える。
目的意識の男女差は感じる。
どうせ捨てられるような物でもダメもとで作って、リスクもコストもあるトライアンドエラーを女が繰り返す必要があるか。(資源の呪い)
結局、JBの『マンズマンズワールド』の言うような世界。

男が試行錯誤するのはそもそも生物的な価値がないからなんだよな。
その属する社会にとっての資源的な価値が女に比べて低い。
だからその生命を犠牲にしてでも社会を守るように、ビビらないように教育される。
部活のしごきとか、部族の成人の儀式とか、その肉体が社会のものだとわからせ、無心で社会に尽くすための意識をつけるもの。
敵が来た時に逃げたりするようなヤツにはさせない。


工事現場の男臭さでびっくり。
これはアンチフェミニズムの典型的な言い分。
結局、汚いところや危険なところは今でも男がやってる。
体なんて売れないし仕事がないなら本当に死ぬだけだから、死ぬかもしれない仕事でもやるしかない。選択肢なんてない。
労災の男女比を見ろ!というやつ。
「責任を引き受ける」、「リスクを取る」、ということを価値の無さから強いられていて、その結果生存者バイアスとしてその分母に比例して成功者が多くいるという因果をフェミニズムは無視している。


ケン、能力がない男は男社会なのに、どこに行っても門前払い。
これもフェミニズム批判だよな。
男は能力がなくても男社会ってだけで楽できて、女は能力があるのに・・・みたいなの、よく聞く。
よっぽど厳しいと思うけど。



サーシャ母の不平不満はフェミニズムっぽい。

洗脳とするのもフェミニズムっぽいな。
フェミニズムに都合が悪いものは洗脳で本人の意思ではないとして、フェミニズムに都合の良い考えだけをスルーしていれば、それこそが洗脳なのでは?
そもそも、男の気をひいている間にトラックに詰め込んで、「孤立させて説得する」というのが洗脳っぽい。

だけど、これは逆に「洗脳」と言わないとかなりヤバい。
女がマッチョが好きなんでしょ、って話になる。
大統領も男に媚びてて、最高裁判事がチアやってる。
デュアリパもマッチョが好き。
なにも考えなくていい。
「永遠に脳がスパの日みたいだわ。」

「男が女社会でつまらない」は良く描写されていたけど、男社会での女はバービー以外は普通に楽しそう。
「洗脳だから!」と言ってはいるけど、「マッチョが好き」とか「決断がなくて楽」はそんなに”全”否定できることなのか?
洗脳というエクスキューズは必要だけど、微妙に引っ掛かるようにできてる。


男同士の戦いを女が引き起こす。
男はヘタレで馬鹿。
女は狡猾で自分たちのために性的資本も使う。
この辺も割と現実だと思う。

結局、「みんなを活躍させよう」とか、「ありのままの自分でいることを好きになろう」とか、パイのある話をしていたのに結論でパイを無視するのはどうなんだろう。
「優位な私が好きで、劣位の自分が嫌い」という相対的な価値観自体の持つ問題だけど、それがなくなることなんてないし、むしろすべてがそう言うことを加速させているのによく言う。
「足るを知る」ってそんなにキラキラしたものじゃないだろう。

「人間が男社会やバービーを作るのは、過酷な現実を乗り切るため。」
社会の中でこき使うくらいしか生物的に価値がない男が社会を作ってるから男社会なのであって、そもそも社会という外に放り出されて食い扶持を自分の労働力で得るという過酷な生き方を強いられているのは男なのでは?
数十年前の農家なら男も女もひたすら農業してる。
ホワイトカラーだけを見て、そんなに貢献してない、私にもできそう、と思った、ってだけの話。
「過酷な現実」はそんなに恣意的に人間の好き勝手にデザインできない。





という感じで、現状否定で進歩派のフェミニズムではなく、現状肯定な感じ。
現状肯定というかある程度は現実として受け入れようというか。
演繹ではなく帰納というか。
「女はとにかくかわいそう」、「全部男のせい」ということの具体例をひたすら見せてくる説教くさい典型的なフェミニズム映画とは全然違う。
社会の共犯性、必然性をある程度受け入れよう、という感じ。

それは良いんだけど、ストーリーは全然面白くなかった。

反フェミニズム的なものに関しては、ある対象への過大評価、別のある対象への過小評価によって支えられている点をもう少しストレートに表現しても良かったのでは、と思った。
「現実はキラキラしていない」ということは良く描写されていたと思うが。
また、そもそもそれを引き起こす下部構造の問題、「資本家の御曹司が土木をやらない」みたいな部分は原因として描写が必要だったのではと思ったので多く書いた。


K...Death!!(死!)、それまでどう訳すかを楽しんでたら、字幕でも同じボケができた珍しいパターン。
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