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ペトルーニャに祝福をのAirconのレビュー・感想・評価

ペトルーニャに祝福を(2019年製作の映画)
3.5
日本にもこういうのある、たまに死人が出る伝統行事みたいなものに、32歳ニート喪女が就活に失敗した帰りにヤケクソの思いつきで極寒の川に飛び込み、男たちよりも先に十字架を取ってしまう。

実際に運用するときに原理原則を用いる領域とその場で臨機応変に対応するべき領域はあって、通常の目的ならどちらが正しい訳でもなく、「原理原則を用いたり」、「あえて明言しないorできない」、そして場合によっては「原理原則を変更することもある」というのが現実的だと思う。
人間が多く関わるんだから最終的にはバランス感覚。
こういう主張がされるときには、対象のバランス感覚がおかしいかがポイントだと思う。本来は。



この映画の変なところは、「映画自体の主張」、「アナウンサーの主張」、「ペトルーニャの主張」が微妙に異なる印象があって、それが描写不足のミスなのか、あえてその「違い」を出そうとしているのかが微妙でわからない。
端的には、ペトルーニャの行動を「男性優位社会への抗議!」と捉えていいのか微妙。

いつもの社会派フェミニズム映画だと判断して、短絡的にその手の主張に同調する様な感想が多いが、自分的にはそういうことを言っていたのかまあまあ疑問だった。(その手の主張が無いわけでも、否定的なわけでもなく、あるんだけど)




まず、1、自分的にはだいぶ「ペトルーニャ自身に問題ありという描写」に見えたし、2、主張は「かなり一方的に成文法主義みたいなロジックを立てて、それ以外認めないという立場」だし、3、その「いきさつは八つ当たりやヤケクソ」に見えた。


1、そもそも高齢の親が倒れてるところに蹴り入れられるような娘なら、高圧的な刑事に罵声を浴びせられても、わけわからん男に因縁つけられてツバかけられても、その「優位」を問題視することがだいぶ揺らぐ。
あるフレームでは自分が「優位」であり、他人を虐げていてそれを改善する気はないのだから。
「自分より弱いやつに暴力的に振る舞う」というフレームではこの主人公もまったく同じことをやっている。(なんなら主人公が最も直接的な暴力を加えた描写だった)

そういうことを全部無視して、「男女平等を主張しているのだから」と、主人公を肯定できる人が多いということが、ものすごく「規範」というものの強さを証明している。
その「規範を守る」という当然のようにやってしまう行為=「今正しいとされている価値観を無批判に自動反復する行為」こそが「伝統を守る」ことであり、違反したものにツバをかける行為なのだけど。。。


2、そういった「是々非々で前例踏襲、空気を読んでいる人たち」に対して、ペトルーニャは「そもそもそんな決まりはあるのか?」という、「明文化されているか?」で争っている。
(そこに「男尊女卑なんじゃないか?」と、そのペトルーニャに乗って自分の主張をしているのはアナウンサー。)
「でも書いてないですよね?」と言っている。
所謂ルールのハッキング。
だけどペトルーニャのやり方は全然良くない。

偶然「女子禁制に抗う」という時代の波に乗れているから上手くいったものの、基本的にこんな風にロジックにこだわってやっていても無理なところは無理。(良い悪い関係なく)
実際は、すべてが契約、すべてが明文化されていることはなくて、なんとなく慣習でやっているものだってたくさんある。
「書いてないじゃない?」と言って問題提起するまではアリだけど、ハックして認められるかは全然別の話。

白鵬がラインよりかなり後ろに構えたり横綱相撲をしないことは、ハックとしては「書いてないんだからOK」だけど、それが認められるかはまた別の問題。
議論してそれが必要なら明文化するだけ。

つまり、「明文化されてない領域」でゲームをハックすることが、認められるか、単なるゲームのデバッグになるかはまた別。
書いていないんだから=OKではない。
(明文化がすべてだと言う人は、「何故人を殺してはいけないか」の問いに「人を殺してはいけないと書いてあるから」と答え、もし書いてなければ機会があれば殺すのか?)

そして現実的にはもっとハレーションを予測するのが当然で、これだけ「書いてないんだからOKにしろ」とツッパるのなら、向こうも明文化されていない領域や立証されない領域で何かやってくるリスクはある。
徹底的にやるならそれくらいは覚悟しないといけない。


3点目は、そういうことを「たいしてこだわりもない宗教的行事で」「思いつき」「通りすがり」にやるというかなり八つ当たり、ヤケクソに近いムーブに見える、ということ。
たしかに面接官(男)でフラストレーションは溜まってる。
(ここらへん、朝から不貞腐れているが、マジで”このレベル”で「どうせ私なんかデブでブスだし!」って言ってるの、ホント井の中の蛙で、隣の芝生だなー、と思ってた。マクロでは上位1%くらいに入っていても、価値観はまわりの人間で決まる。東大でビリだと当然キツい。アフリカの子たちと比べて、生命の安全性に感謝なんか当然しないで、友達が一万円のランチを食べていることに対抗したくなる。数百年前の1位の王様よりも安全で裕福な暮らしをしているのに。)

「20代だと偽れ」との母の助言に抗い、32歳だと正直に言った、42歳かと思ったと言われる。(これも本気なの?わざと嫌味?全然老けてる感じじゃないんだよな。)
だけどこの行動には意思は少し表れてる。

事を起こし、最初に「女人禁制」が持ち込まれるのは、彼女の行動を問題視するために負けた男がレギュレーション違反を言い出す。
アナウンサーは事実が何もわからないうちから自分の主張を無理やり乗せて出来事を語ろうとする、これは「メディアの問題」を露悪的に描写しているようにも見えた。
「体制への抗議」や、「性差別への抵抗」という「運動」へ結びつけようとする。



そういう感じでこの映画は、「彼女は女だ(伝統を重んじる派)」と、「女だからなんだ(進歩派)」の対立という定番フレームがぬるっと入ってくる不思議な感じ。
だけど、後半の「この映画の主張」をやっている様な描写⇒「北マケドニアの女性の顔」は、アナウンサーの主張に近い気もする。
シンプルに男性優位な北マケドニアや、宗教の伝統を問題視してたのか??


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2点目についてもう少し掘り下げると、
民主主義がクレーム対応なのだとすると、このようなハッキングが起きた時、双方からクレームが出る、そこで今回のケースをどのように扱うかを民主主義で決める。

①「伝統派」と②「進歩派」、③十字架を返してくれれば問題にしないという穏健な伝統派、そして④明文化されていないし取ったんだから絶対に私のもの派。
①が悪目立ちしているものの(返せと言っている男に全く正当性がない)、端的にはすべての選択肢に一長一短両義性があり、どれにも問題があるという現実を描いていたように見えた。(最後の方まで来ると、普通に進歩派なのかよとも思えたけど)

②なんか当然否定できない「正しい意見」として扱われる映画が多いが、当然ロジックとしても伝統派とほとんど変わらない問題を持っている。
0~100の幅の中で30派と31派くらいの違い。
ただ時代の変化と共に「何が無駄か」「何が必要か」という微調整が必要なのは確か。
そこは事実の問題でなく気持ちの問題で決まる。
事実とか科学とかを持ちだしたら全部無駄だし。
伝統派も進歩派も「宗教的儀式は必要」までは一致していて、「+女」の部分だけの違い。
そして「進歩」も別にそれ自体が「正義」ではない。あたりまえ。
今の解釈で、「より」正義に「今は」「できる」だけ。
蓋を開けてみると個人の利害や単なる権力闘争であることは多い。

当然「正義」は結果論で後から決まる。
ジェンダー平等で世界中の人々が不幸になったなら「あの考え方は大変に問題がある考え方だった」と当然なる。
そして、それを推進した時代の人々は大変な間違いをしたとされる。
当然、ジェンダー平等が推進される時には主観では問題があると思っている人は少ない。
だから推進されるんだから。
ただそれ(多くの人が正しいと思ってること)は「正義」だとか「正しい」を規定しないということ。

歴史上の大きな間違いだと今の視点から見えるものも当事者は当然のように賛成してる。
反対したいのにできなかった、ということはあるが、本当に反対したかったらできる手段は少しはある。(正確には反対しても変わらなかったということ。それも結果論。)
反対のコストをペイしない程度の反対だった、反対しても変わらなかった、を含めて賛成。

逆に、今の価値観が「正しい」と言える条件は、「これからずっと価値観が変わらないこと」になる。

そういう感じでおそらく正義的には間違っている①~④の中でどうするかを決める。
それを多数決ではなく民主主義で決める。
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ペトルーニャの主張について、「やり方の問題」についていろいろ書いたが、「明文化されてない領域でゲームをハック」されたら、やむを得ず認めるなりデバッグするなり、最低限手続きはすることが社会にとっては”最も重要”だということも書いておく。
「書いていないんだから=OK」とはいかないが手続き自体はしてあげないと、ゲーム自体の意味が無くなる。

日本ではまだまだそういう田舎なところがあって、情念や空気や縁が強い。
島国で平和すぎたのか、閉じた村で淘汰が進みすぎたのか、ゲームが複雑化して最終的には「トータルの力が強いものがすべて」みたいな謎のゲームになってしまっている。
ルールなんかなくて、「力」でごり押しできる。
「力」が無いものは”表面上の”ルールに沿っていても潰して良い。

そしてその「力」の源は、「情念」や「空気」や「縁」なので、集団の意識が関わっている。
つまり、同質化が進み全員思うことが一緒だから、同じことを考え同じことをしたいと思う。
だからテクニックとしての「盆踊り」みたいなことが無意識に集団的に使えて、9割が引っ掛からなそうなら「初見殺し」みたいなことも無意識に発動する、それに備えることも「力」になる。

ペトルーニャの話に戻ると、要はそういった閉じた同質の集団でゲーム自体がコントロールされている所謂「田舎」「村」的なところだと、つまりその集団は前時代的な犠牲を必要とする。
生贄的な代謝を繰り返すモデル。
つまり、「社会」とは村とは逆の意義、目的で、他者が存在する(できる)こと、「進歩的」とはそういう生贄的なものを減らしてもっとみんなが幸せになること、「個人主義」とは集団的な理由で個人を生贄にしないこと、なので、「それも究極的には好みの問題」とは頑張れば言えるのかもしれないが、人間の在り方としてそういった村のような前時代的なものは気持ちが悪いと思っているので(ホラーで昭和の村に起源があるのは気味悪くて好き)、そういう「村的共同体の一体感」に対して圧倒的弱者な「個人」が少しでも抗える「書いてないですよね!?」は社会が担保する、無視してはいけない重要なものだと思う。
何度も書くが、それで結局デバッグされてしまってもしょうがない、「手続きはする」というところまでは担保することが大事。
そこのライン。
弱くてもそれが1でもある場合と、まったく無い場合とでは、個人という存在の意味は大きく違う。
そういうものが無い、「力」がすべてのところには住むのは怖い。
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