やまもとしょういち

コンクリート・ユートピアのやまもとしょういちのレビュー・感想・評価

コンクリート・ユートピア(2021年製作の映画)
4.1
「自分一人が幸福になるということは、恥ずべきことかもしれないんです」

病によって身分や職業など一切関係なく、「その町に暮らしている」という一点のみにおいて世界から見捨てられた人々を描いたカミュ『ペスト』と同じように、本作のファングン・アパートに暮らす人たちは、そのアパートの一室に住んでいることを理由に社会から切り離される。ただ、このアパートに暮らす人たちは「選ばれた」と各々が自認するように、『ペスト』とは反対に切り離されたことによってささやかな幸福を享受する。

韓国の作品において「住居」というものは、そこで暮らす人々の社会的階級を如実に反映しているように見受けられる。ファングン・アパートに暮らす人たちは、貧しくはないが豊かではない「普通の人たち」だ。アパートの住人たちは、大災害によって突然手にした特権を守り抜くことに執着し続ける。その特権は、たまたま手にしたものではなく、幸運ではあれど、自らの手によって手にしたものだと思い込んでいるからこそ、特権を持つもの同士では助け合い、そうでないものを徹底して排除し、特権を持たない者たちから徹底して奪っていく。

アパートは「降りられない船」であると同時に、「方舟」でもあったのだろう。

コロナ禍とセウォル号沈没事故の2つのモチーフが重ねられているように感じるが(欧米の観客は移民の問題を思い出すだろう)、本作を通じて描かれるのは、中産階級に対する批判だろう。新自由主義社会のなかで手にした権利や地位は、何かの、誰かの犠牲の上に立っているものではないのか?屍の上を這いつくばって食料を求めるミンソンを通じて描いているのは、その残酷でグロテスクな現実だろう。その戒めとして、婦人会長の息子は無惨な死を迎えさせられた。ここにはヒューマニズムはない。

ミョンファンだけが聖職者かのように描かれるが、この人物の思想や行動の背景がほとんど示されることがなく、キリスト教的なモチーフに回収されていったことが残念だった。あの極限状況でのミョンファンの振る舞いはヒューマニズムというより、宗教的だった。

韓国を襲った大災害は、単純にコロナ禍とも読めるし、あるいは人々の暮らしをいとも容易くに踏みにじる「システム」と解釈することもできると思う。SF的な設定で韓国社会の熾烈さを表現しているはずではあろうが、ではその巨大な力を前に、私たちは何をすることができるのだろうか。いつ水や食糧が底を尽きるかもわからない、いつまで続くかもわからない極限状況で、自分一人が、家族や大切な人だけを守って幸福になることを、恥ずべきことと思えるだろうか。

アパートの住人たち全てにヒューマニズムを求めることは難しいとは思うが、再生産された小さなシステムが崩壊していく様を見て絶望的な気持ちになるのは、自らも大切な人とのささやかな幸福を守るために巨大なシステムに加担している「普通の人」だからなのかもしれない。