複数のエピソードで分かれた聖フランチェスコの半自伝的な物語であるが、脚本の共作としてフェデリコ・フェリーニが携わっていたので、もう少しトリッキーな映像世界を予想していたが、イニシアティブは監督であるロベルト・ロッセリーニが舵をとっていたのか、かなり生真面目に撮っている印象であった。(当時は人気女優との不倫騒動もあったので、名誉挽回も理由としてあるかもしれないが。)
イタリアの国教は半数以上がキリスト教であり、カトリック系の生々しい影響がかなり強いことが映画から読み取ることができた。
暴君ニコライオと弟子とのシーンで、まさかの「人間縄跳び」を実演したのは大変可笑しかったが、さらにニコライオ一人だけあんなに重い鎧を付けていたが、誇張しているにしてもあれでは逆に身動きがとれなくなり戦えないとは思うが。
ロッセリーニはこの映画において、主人公が神がかりで「十戒」のような現実的にあり得ない描き方はしていない。地味に信仰心を持った聖人フランチェスコと修道士である弟子たちの、教義に従いながらも人間味のあるエピソードを中心に描いていた。そして彼らの行動は純粋であるが故に側からみれば道化と云われるように滑稽そのものである。しかし道半ば偶然に出会ったハンセン病患者を抱きしめる場面はあったが、それは慈悲による抱擁ではなく、そこで生まれて初めてフランチェスコは本物の神と出逢うことができたのではないだろうか。
上映終了後に帰り道による交差点で「世と世の欲は、過ぎ去る」と看板に大きい文字で書かれた聖書の言葉を引用した街宣活動を偶然目にしたが、これは物質的な欲望などは、神から与えられたのではなく、いずれは消えてしまうという教えである。一時的に執着するのではなく、神の愛に従えば永遠の命を得られるというメッセージである。物や名声に惑わされることなく、本当に大切なものを見つけることができれば幸せである。
唯物的な科学や哲学が進歩していけば、対立しているシャーマニズムのような霊的な神秘思想は、やがて淘汰されるのではないかと思うことがあったが、現在でもそのような兆候は現れる気配はなく、時代の流れに順応しながらも折り合いをつけて、お互いが溶け合うように残っていくだろう。
[シネマカリテ 12:45〜]