晴れない空の降らない雨

めまいの晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

めまい(1958年製作の映画)
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『裏窓』でも思ったけどジェームズ・ステュワート老けすぎでは?

■紳士は金髪がお好き
 ヒッチコックが金髪フェチなのはよく知られている。ジョーン・フォンテイン、イングリッド・バーグマン、グレース・ケリーなど、これまでのミューズを並べてみれば、知性や憂いを感じさせる金髪美女が好みだったことがすぐ分かる。そういった意味では、本作のキム・ノヴァクは正直これら3人に対して見劣りする気がする。しかし、本作に限っては、主演女優はマデリンとジュディの両方を演じなくてはならなかったのだから、彼女が適役だったと言える。
 

■裏返しとしてのフェミニズム?
 『めまい』は、こうしたブロンド美女に対するヒッチコック自身の妄執を客体化したような映画だ。この自己追求の成り行きとして、本作がフェミニズムのような立場に至っているのは、特筆すべきことかもしれない。
 本作は一種のメタフィクションであり、自分の標準的作品における恋愛表象を対象化している。それらの作品は、同時代のハリウッド映画に負けず劣らず男性目線でつくられてきた。そのため、本作はそうした構造を浮き彫りにし、結果的にフェミニズムっぽくなった。そんなところだろうか。
 いや、本作のヒッチコックは、女性に対する同情的スタンスを選び取っている。そう考える根拠はいくつも思い浮かぶ。そもそも最初のコルセットをめぐる会話と、19世紀半ばに自殺したカルロッタの話は、「男性の都合に振り回される女性」を観客に印象づける。何よりこれはもちろん本作のK.ノヴァクそのものである。また、元婚約者の女友達(バーバラ・ベル・ゲデス)に注目してもよいかもしれない。彼女はどこまでも都合がよいが、それにより観客の同情を誘うように描かれている。これは必然的に、主人公に対する反感へとつながるだろう。
 ところで本作では2/3くらいで、意外な真相があっさりと示される。確かに、ヒッチコックは情報を長く隠すよりも観客にだけ与えることでハラハラさせる方を好んだので、今回もその一例に過ぎない可能性は大きい。しかし、本作に関しては別の理由も考えられるのではないか。第三幕では、観客はJ.ステュワートではなくK.ノヴァクに感情移入しながら観るはずだ。退院後もJ.ステュワートは常軌を逸したままであり、K.ノヴァクを追い詰めていく様子が描かれる。かたや、K.ノヴァクは追い詰められるか弱き女性であり、愛ゆえに破滅へ向かおうとするメロドラマ・ヒロインとなっている。このようなK.ノヴァク演じる女性像の転換のためには、事の真相を明かし、前半で彼女がまとっていた「マデリン」という神秘のヴェールを剥ぐ必要があった。とすれば、この唐突な暴露もまた、女性側に観客を立たせるための仕掛けと言えるだろう。
 以上のようにヒッチコックは、女性への抑圧の告発を強化するような要素を意図的に追加している。もっとも、本作の後も金髪美女を起用することに変わりはないのだが。
 

■幻想のスクリーン
 『裏窓』では、主観的なスクリーン(裏窓)とそれを通して眺められた他者(向かい側の住人たち)があらかさまに視覚化され、主題化されていた。まるで映画館の観客のように身動きとれない主人公は、自分自身の結婚をめぐる関心をフィルターにして向かい側を眺めていた。
 本作はここまで露骨ではないが、やはり同じように「主観性の対象化」が行われている。パッと思いつく限りでは、まず花束を買うマデリンを覗き見るシーンで、ガラスに映る女と覗く男をワンフレームに収める。これにより、単なるカットバックで覗き見るステュワートを単独で映すよりも、彼の覗き見行為がより強調されている。
 精神病院では、茫然自失のステュワートは女友達が「目に入らない」、つまり彼のフィルターを通過しない(もっともこれは彼が正気だった頃からそうだったが)。しかもその後彼女は完全にフェードアウトする。次のシークエンスは分かりやすく、マデリンの立ち寄った先々を回りながら、そこにいる女性がいちいちマデリンに見えてしまう。以上は、ステュワートの女性を眺めるフィルターがいよいよ偏狭になったことを意味する。
 そして終盤では、ジュディに無理矢理マデリンの格好をさせるという偏執狂ぶりを通じて、自分の欲望に合わせて歪められた現実を眺めるという「男性目線」の有り様が戯画化されている。このパートに至って観客は、ジュディに感情移入しながら映画を観ているはずである。
 
 
■フィクションの崩壊
 歪められた現実が投影されるステュワートのスクリーンは、最初の喪失で破壊されるどころか強化される。つまり、マデリンは永遠の理想に高められ、彼はそれを基準にしか女性を見ることができなくなる。ところが結末では、単に喪失が繰り返されたのではなく、その理想そのものが失墜する。全てが汚れてしまい、取り返しがつかない。彼はもうマデリンの面影を追いかけることはおろか、その思い出に浸ることさえできない。
 しかも、この理想像は単なる男の誤解の産物ではなく、別の男による作り物だったのだから最悪である。ステュワートが金髪好きヒッチコックの分身だとすれば、エルスターという罰せられない悪人は映画人ヒッチコックの分身と言ってよさそうだ。彼もまた、数々の金髪ヒロインを創作し、スクリーンに投影させて男性の目を奪ってきたのだから。
 しかし、だとすれば、映画がスターを使って表象してきた女性像や恋愛像そのものが、「あのね、オッサンの妄想ですよ」と突っぱねられたことになる。実際、『めまい』の前後からヒッチコック映画の男女関係は、どこかウンザリした調子で描かれているように思う。
 このように、本作はメタフィクション的な構造が最も際立っている作品の1つである。しかし、フィクションにおける自己言及の常として、このことは彼のサスペンスの爛熟=腐りかけをも示唆していたのではないか。そのため、次作『北北西に進路をとれ』(この傑作とてセルフリメイクに過ぎないとも言えるわけで)の後は、恐怖や緊張がより直接的になり、ジャンルはスリラーへと接近していったのだろう。従来見せていた心理主義的傾向や精神異常への関心もこれを後押しする。
 
 「めまい」はもちろんダブルミーニングで、高所恐怖症と魅了されることを同時に意味している。だから、後者が解けるとき、前者も解ける。ヒッチコックはいつも通り、この流れを分かりやすいシニフィアンで語っている。まず、オープニングの渦巻きを通じて観客=男性が女性の瞳に吸い込まれる。そして花束、髪飾り、と視覚的に類似したイメージが連鎖していく。これらのイメージが、鐘楼のらせん階段と重ね合わされ、「高所恐怖症=魅了されること」の等式が完成する。
 最終的に主人公は「恐怖」から解放されたが、引き換えに「恋愛」することもない。「恋愛」というフィクションは、それを支えるファンタジーが暴かれることによって崩壊したからである。