晴れない空の降らない雨

ケイコ 目を澄ませての晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

ケイコ 目を澄ませて(2022年製作の映画)
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 激しいフィルムグレインにもかかわらず、映画ははっきりと現代だと告げている。コロナ禍を表すマスクによって。では、過去をアピールする記号でないとしたら、このフィルムグレインは何だろうか。終戦直後から続いていたという設定のボクシングジムや下町の雰囲気などから、ある種のレトロ趣味が混じっていることは確かだ。けれども、それが全てではないらしい。おそらく、この粒子で濁った画面は、目を澄ませていない我々が見ている現実だ。

 映画では、聴覚障害がもつある種の強みが描かれている。ケイコは、時として不快あるいは余計な情報を得ずに済んでいるのだ。ケイコが見ている世界と我々が見ている世界は、音声情報の有無によって異なるものであることは、印象深いやり方で何度か示されている。例えば、誰かが叱られているボクシングジムで、平然とした顔で練習を続けるケイコがそれだ。ここで我々はオフスクリーンの音声としての怒号を聴きながら、ケイコの横顔を見つめており、彼女に対して距離を感じずにいられない(同一ショットで画面奥に現れるトレーナーの一瞬とまどった表情は我々にとって鏡の役割を果たしている)。さらにケイコの近寄りがたさは、彼女自身が周囲に作り出しているものでもある(無論聴覚障害が彼女にそうさせている側面も大いにあるだろう)。

 ところでジムの中では、トレーニングしていない人であってもノーマスクである。このとき、マスクは人々の心理的距離を示すちょっとした小道具として使われており、まさにそれが聴覚障害者を主人公にした本作のテーマである(唇の動きで発言内容を知る主人公にとってマスクは、健常者以上に他者との間に距離を生み出してしまう)。マスクより決定的な役割を果たすのが手話であり、登場人物はケイコと「コミュニケーションしない人間」「手話でコミュニケーションする人間」「手話を使わなくてもコミュニケーションできる人間」に大別されているように思われる(しかもよく見ると、手話を使うにしても「つい言葉を発してしまう母親」と「言葉を発さない弟」の区別もある)。
 映画は結局のところ、手話は不要ではないが重要でもなく、本人と周囲の姿勢が肝心なのだという穏当な結論に落ち着いているようだ。だが、映画に最後まで付き合った人間が、そこに物足りなさを覚えることはないだろう。