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午後の遺言状のotomisanのレビュー・感想・評価

午後の遺言状(1995年製作の映画)
4.0
 杉浦春子、人生濃縮の夏休みである。しかし、濃すぎてひとりでは賄いきれず別荘管理の音羽、昔の同僚朝霧を始め老若男女総動員である。番外として大工のろくべえが棺の釘打ち石で代打出演するが、あー、これが麿赤児かとあまりの丸さに見入ってしまったがこれは違った。

 このろくべえの頃合いを知ったという不自然死がまだ死にそうでもない杉浦にも、現実の死をもひとつのドラマにしてやろうという意欲?を掻き立てるのだろうか?このろくべえ石に自分の棺の釘打ちをさせるという。
 思いついたがなんとかで明日早速死んでやろうというなら大した祟りだが、死は別の死を呼び寄せるらしい。築地小劇場で「三人姉妹」なんてとんでもない昔だが、それを舞台キャリアの第一歩とした杉浦の当時の同僚で、のちに能楽師観世と所帯を持ち舞台を去った朝霧が旅の途中ふらりと別荘の杉浦を訪ねて来る。しかし、認知症の朝霧は、会いたいといったにもかかかわらず杉浦をその人とは分からないようだ。
 結局、記憶の中の杉浦と今あっている杉浦が噛み合う事がないまま、これまた正気を失ってゲートボール年寄り襲撃に及び、さらに警察から脱走した男が逃走の果てに押込んで来て杉浦を脅迫する場面で、朝霧がかの男を打擲一喝した確かさもまた、杉浦を庇った事とも思えない。それどころか警察に取り押さえられたその襲撃男をかえって庇ってしまうんだが、あるいはそれが築地小劇場時代の終わりを画した特別高等警察の手入れ風景を思い出しての事かもしれない。
 何にせよ、杉浦と「三人姉妹」の姉オリガ、築地の終焉と襲撃男の末路、自分の最後の大活躍と産まれ育ち決別した故郷と再び対面する旅もおそらくみんな噛み合わないままの朝霧であろうが、むしろまたとっ捕まった襲撃男の僅か残った正気には共鳴可能な何かを、かの一喝として与えられたらしい。移送中の駅頭での再会で「ばあちゃん」と発した懐かし気な一瞬があるいはこのドラマのクライマックスであったように回想されるのが不思議なようでもある。
 しかし不思議ではないのだろう。それというのも、その場面が物語の登場人物の誰にもそのように受け取れることがないであろうからだ。別荘の面々はもちろん、移送の警官も襲撃男の足を掬う少年も誰もその一言は記憶に残せず、正気の無い男の第3の襲撃(未遂)として犯歴追加の一行となるだけだろう。唯一その一言の真意を受け取れるはずの朝霧はその三日後にはもうこの世の人ではない。正気を失くしたその男が一喝を呉れた朝霧を最後にその人と認めた人間になるだろうが、もし正気を取り戻した時そのばあちゃんの記憶はその通りの感動でよみがえるのだろうか。あるいは今となっては正気を取り戻す事がその男にとって何らかの意義ある事になるだろうか。

 物語の動向は、そうした事件の乱入によって無駄とも言えそうなスピンに見舞われるが、乗っかれば目的地にまっしぐらなんて便所への行き帰りですら覚束ない。命拾いの面々がそれぞれの残り時間、それぞれのピークを目指す。忌々しいかな杉浦は音羽の娘で我が「義理の娘」のニッポン最古の結婚習俗をニッポンのど真ん中で巨根を立てる(こちらが麿)八ヶ嶽村で大いに立って、朝霧は夫観世と共におおむかし袂を分かった産まれの村を遠くに再会してのち、ついに海に沈む。いづれ杉浦にもその足跡が知れるような証憑を用意して。
 なんだか産まれて生きて死んでゆくを掻き集めたような塩梅だが、結果、経立った杉浦が舞台で倒れてやろうと東京へとって返すのを「義理」でも孫の顔ぐらい拝めよとこそ言わないけれど、そう言ってやりたいだろう二婆あの片割れとして見送る短いに決まってる向こう一年のきっと長く感じるだろう事を音羽は憂鬱に思うのだ。出生の秘密をケロリとして聞き取った「義理の」娘なのだし。だからこそ、余計なろくべえ石は忌々しい。
 あんな話をしなければ、わざわざ拾って来なければと元の渓潭に石を戻す傍らで、最前のあんな日々は無かったかのような笑顔で急の取材に応じる杉浦の表の顔が死ぬ予定も素知らぬ気と言わんばかりなのがおかしくもあり本当らしくもある。全てが芸の肥やしならこの世の終わりでも死ねないはずなんだろうが。差し当たり夏休みはプラス一日?
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