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永遠の人のotomisanのレビュー・感想・評価

永遠の人(1961年製作の映画)
4.4
 なんというか、これは20世紀人、小清水家・仲代のこころの断面の数々というか。
 仲代本人だけとも言えない、物語を牽引する高峰にせよ、その父・加藤嘉、元の恋人・佐田、小清水家先代・永田靖、そして、夫婦の子ら新世代と、いずれにもその時々の思いの口を割らせ同時にその言葉は仲代を切開するメスのようでもある。そんなやりとりがスペインのギターに奏でられ、どこか異国の吟遊詩人に語られる年代記のように刻み込まれるだろう。

 では、小清水家・仲代を腑分けしてどうしようというのか?そこが、この世紀も半ば過ぎ、日本の道筋が安定を見せ始めたこの時こそ小清水家を材料にして、ニンゲン何者として生まれて、封建制社会から帝国、共和国への世間の大変化のもと、何として生きてゆくか、もってその痛苦のあれこれから、歴史的に背負わされたことや、その時々にさらに自ら背負い込んだもの諸々の仕方なさを挙げて、ではどうすれば仲代はこの先を生きて彼岸を得るのであろうか?と、問い質すものであろう。

 誰かがその物語を『不幸な「喜びも悲しみも幾年月」』と表したと又聞きしたが、その文言を強く否認したい一方で、確かに、仲代が理不尽にも怨敵とした佐田ではあるが、その今わの際かと聞き遂に彼を訪ねようという仲代の足どりに2時間にわたる緊張の突然にほぐれるのを覚えざるを得ないのだ。
 その先でおそらく佐田に形にもならなかろうとも詫びを絞り出さずにはおるまい仲代の苦衷の深さが知れる事だろう。しかし、その場面を敢えて切り捨てた事に、そこに団円を見出され、終わりよければ、で済まされてはならない、かの20世紀における彼等の苦痛の諸々も、その果てに縋らざるを得ないのだろう恐らく出口と思われる光明の痛いような眩しさも忘れられてはならない歴史の追加事項であり、佐田のもとへの出立は、やっと何かの始まりに漕ぎつけたにすぎない事を示してもいよう。また、それは仲代を中心とする人々、妻・高峰、義父・加藤、逃亡中の次男、死んだ長男にさえ、また余命いくばくな佐田もまた、負の走光性で生きてきたようなこれら者にとっては痛いように明るい、ようやく訪れた一つの画期を呈する事であって、その通り心中に銘記されるべきであると、同時に佐田の余命を一層縮める激震でもあって、用意はいいか?と突き付けてくるのだ。

 地勢を眺めると、そこは阿蘇西麓、今の空港辺りだろう。山の裾野に走る谷のひとつが「千両谷」とされ、小清水家の泉源たる山林と謳われるが、村の衆は一致して「千人谷」と陰口をたたく。
 中世文書によれば、一揆衆千人が小清水家の始祖の裏切りで皆殺しに遭い、谷に遺棄されたその上を同家の山林がやがて覆い、のち一家の財源となったという。
 殺された千人が小清水家の千両箱に化けたなら一家代々それは笑いが止まらないというところだろうか?それとも、笑って飛ばさねば寝覚めも悪いに違いないか。そんな歴史に乗っかっても明治以前は村方の総支配である一家に弓を引くものなど無くてよかった。しかし、明治政府が起こって肥後の太守も消え、小清水の権威は相対化され、誰もが文部省教育を受けて才気のある者は佐田のように国民教育の下、出自に関わらず文部行政の人材観で賞賛されるようになる。
 それが普通となる20世紀、小清水・仲代は佐田の後塵を浴びながらの劣位に生きざるを得なくなる。そこに、封建制下の「千両谷」気分な父と「千人谷」を意識せざるを得ない子・仲代の相容れないところが生まれ、仲代は全日本的競争下にある20世紀人として一家の無残な歴史とこんにちの劣位性を背負って校区の常に二番手、それでも小さな村社会だから伝統的人間関係下を村長と担がれて生きざるを得なくなる。
 父と子、ともに村長を務めながらも無競争で長に昇った父に対し、競争の中で佐田から引け目ばかり味わされた仲代が、常に首席で級長だった佐田を憎み続けるのは明治に変容した日本の社会で劣位を偽って長として生きねばならない者の負い目の裏返しでもある。
 さらに従軍早々、負傷退役した仲代に対し、佐田は重ねて召集されるという「名誉」にも与る。それは当然、個人としては辛い経験であろうが、村では一小作人に過ぎない佐田の村人社会的な立場を高める事でもあって、同時に「千人谷」の安住者が受ける被蔑視感を際立たせる事でもある。
 ただし、だからといって佐田が帝国の優秀人材として頭角を現すかといえば、分限者である小清水家の後援を得られなければ恐らく村を出て文師工芸であれ武であれ上級学校に進むことは叶わない。そして現実にはどんな夢を抱こうともそれより先に徴兵と大陸への出征が全てを阻んでしまう。これもまた初期の20世紀人の実相である。

 仲代に戻れば、こうして高まる佐田疎ましの思いがやがて飽和して、その矛先は横恋慕のかたちをとり許嫁たる高峰への強姦につながってゆく。しかし、この高峰こそ犯されて妻に擬せられ泣いてばかりではいない。その念を復讐として物語は描くわけだが、実はこれが復讐譚のようであって決してそうではない。
 むしろ、この復讐の念に照射された仲代は、愛のかけらもないと告げる妻・高峰を離縁して捨てもできず、二号をつくって欺くでもなく、まして膝を屈して求めるでもない。なす術もないまま覇者小清水の重さにも耐えかねるようである。そこが公に比べられ敗者の烙印を押され続けた者の絶対弱者な姿であり、唯一妻に憎まれる事をもって正当な評価を受け、しかし、それも耐えがたく哀訴にならない言葉で許しを心中に請うのである。それはハンデキャップと相まって、むしろ妻・高峰の憎しみの不成就、恨みの矛先の鈍りとして無駄に毒を周囲に撒き散らせる仕儀となるのである。

 この弱い父と毒を持つ母が醸す空気を第一に吸い、紛れもなく母への罪を体現した子として生まれた長男がやがて、両親の間の事情を知り、むかし母が死を請うた淵で母と自分とを重ね、母をして生きて母たらしめたこの場所には罪の子たる我が身の捨て所が無いと悟る。
 こうして、転じて両眼からもはみ出す巨大墳墓、火の山に身を投じるが、そのとき母・高峰は長男の自死を速やかに直感するように描かれる。そこに、17年の長い呪詛が実ってしまった事を覚えるが、その直感には罪の証しが消えてなくなればいいという年来の希望も入り混じって感じられただろう。
 と共にそれが長男においては母からの謂れの無い誹謗に負ける事でもあり、負けてやってそれが母孝行にもなり、希望を成就できた母からの弱い父への恨みの緩和につながる唯一の希望にもなるとの長男の思いも直感されたのではないだろうか。

 怨念の晴らしようも分からず、ただ嫌がらせのように居座った妻と母の座から子と夫とを遠ざけ、長男に善処の仕様を丸投げした格好の高峰が子の自裁を希望こそすれ、するに違いないと想像していたかは実は分からない。しかし、あのとき確かに自裁を直感したのである。ただ、子を死に追いやる事をどう母が実感したかも分からない。
 ただ、あの淵へと走る中、母・高峰は身繕いを忘れず、行き会う人に会釈を交わす事を忘れず、再会した佐田を前に立ち止まる事も忘れない。
 もしかすると、母・高峰は長男の自裁に際し始めてその子の決心をうれしく思ったのではないだろうか。そして初めてその義挙を誉め、小清水にしてその小清水に自裁という鉄槌を振り下ろして呉た事をもって母・高峰自身による新しい小清水の始まりが叶うか?と覚えたのではないか。
 そうしてやっと母は長男を愛せ、子ら三人の母になれた積もり、なのではないか?こんなこころが歪んでいるというなら、歪めた小清水・仲代とその父、受け入れた義父・加藤、みなかつて夫々の歪みに忍従した同士ではないか。

 すべては負け犬仲代の気の迷いから始まった事だが、それでも仲代が悪人とは思えず、悪心に引き摺りこまれた高峰の根が善良ともその時が兇悪とも思えない。20世紀があんな時代だったからと書き出したものの状況や環境が悪いばかりの事でもないだろう。ただ、ひずんだ一家は最も敏感だった長男が思い切るまで手の施しようがなかったのだろう。では、そのあとどんな弥縫策を講じたのか?案外ただ二人が恨みさえ冷え切っただけな気もした。
 そんな末に、次男は村を出て東京で安保闘争に挺身し逮捕状まで出されるが、冷ややかに逃走資金を母から引き出す事で「千人谷」の負い目を微力ながら晴らすのだと嘯く。兄の墳墓の内苑で、母が父を許すまで自分は母を許さないというが、きっと、そんな日は訪れるわけがないと疑わないのだろう。兄の死から11年、小清水も何も関係なく地下に潜る次男がどこかからかうような調子でいるのは「千人谷」から解放されたついでに国法からもはみ出して自分らの秩序を立ち上げようとする気概かも知れない。ならばそれは小清水が千人を葬って千両を得たような事を政府にはさせない原点回帰に至ったような事だろう。

 こうして離散する小清水の最後の一人、長女もまた駆け落ちするように大阪に発ってしまう。それを秘かに促した母親を長女がなんと見てきたか、物語は一切問おうともしない。また、出奔する道連れはかの佐田の息子とあってもそれは偶然に過ぎないとしている。
 やがてどこの田舎からもこうして人が去ってゆくようになり、昔その家がどのように興隆したか忘れられ、どんな理不尽がまかり通され、どんな不義理に迫られたかも伝わらなくなる。おかげで両家の間の溝も消え、千人谷の屋敷も旧弊と共に朽ちてゆくのだろう。最後に残る老夫婦もどんな会話を最期に交わし終わってゆくだろう。そこに次男の確信が崩される発見があるだろうか?
 そんな展開のか細い想像を促すように、この物語も娘に置き去りにされた仲代の佐田への最後の恨みが妻・高峰と義父・加藤嘉によって打ち壊され、小清水・仲代の理不尽に事が回帰する中、死にゆく佐田との最後の機会が否応なく仲代に突き付けられる。

 あのあと恐らく仲代は佐田に詫びるのだろうが、どんな言葉を振り絞るか。思うに「娘をよろしく」とのみではないか。
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