レオピン

憎いあンちくしょうのレオピンのレビュー・感想・評価

憎いあンちくしょう(1962年製作の映画)
4.6
ジープを追う泥だらけのジャガー 見事に全然違う場所に連れて行ってくれる 真の意味でのロードムービーの快作

OPはルパンかカウボーイビバップのようなお洒落感。テレビ草創期の文化スターである主人公、モデルは永六輔とか大橋巨泉か。ああいうマンションで暮らせる人間はまだほんの一握り。『ジョンとメリー』のように雨の部屋で思弁的な会話を交わしたかと思いきや、突然部屋から飛び出す。

忘れてきちゃったのよ 私たちの愛を

元々コントロール欲求強めの拗らせ女子でストーカーのようにただついてきた女が、気づいたらハンドルにすがりつき号泣している姿。
愛はゲームじゃない 駆け引きじゃない 言葉じゃない 

これほど映画のリズムとマッチしている作品を知らない。結局、何のためにジープを運ぶのかさっぱり分からない。だが優れた映画とはそういうものだ。目的などどうだっていい。転がっていけばいいのだ。

本格的な消費社会へ突入するはるか手前で、これだけのことをやっているということに驚く。
つきあってから幾日とか、一方的なルールとか、倦怠を回避させるためのものがより倦怠を呼ぶ。そんなんじゃない。

問題回避型(性回避)ともとれる二人の関係は、東京から鹿児島への旅を経ることで変わるのか。博多での祭りはリンチを思わせる。お尻むき出しの半裸の男たちに水をぶっかけられる。なんと野蛮な だがその感受性が既に現代生活の怠惰に慣れきっている証拠だ。

本性を呼び覚ます。この普遍的なテーマ
歌詞の作詞は藤田敏八らしいが、弟子筋のゴジ監督の傑作『太陽を盗んだ男』にも通ずる。いや『ファイトクラブ』だって一緒だ。砂を噛むような空虚な現実から脱け出すために、もはや何かにつかれたようにただアクセルを踏み続けるしかない裕次郎。理由は彼にだって分かるはずがない。
ただ彼はどこへ行くにも黒山の人だかりというのがご愛敬。後の「西部警察」の地方ロケのように。
本作は高度成長を駆け上がっていく五輪前の日本縦断記録としても楽しめます。

ラストの九州であのカップルが再会した途端に顔を曇らせるのは、もちろん心当たりがある。この頃は文通やペンフレンドだが今は違う。バーチャル批判とまではいわないが、言葉が行動に負ける時。過剰な言葉はいつだってハズい。
側にいる人を力強く抱きしめ、これが俺たちの1日目だと広い背中が語っていた。

本作で浅丘ルリ子の演技は一皮剥けた。その後蔵原監督とはしばらくつきあっていたそう。
何より一番憎いのは監督だったという。ったく憎い あンちくしょうめ!
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