LalaーMukuーMerry

カティンの森のLalaーMukuーMerryのレビュー・感想・評価

カティンの森(2007年製作の映画)
5.0
カティンの森事件。ヒトラーのやったアウシュビッツのホロコーストのことは知っていても、スターリンのやったカティンの森のことは、最近まで知らなかった。この事件をそのままタイトルにした作品があることを知り、しかもアンジェイ・ワイダ監督作品と知り、覚悟して観ました。

もの凄い衝撃…、特に最後の数分
命を消され、歴史から消され、真相も消された人々
命をかけて真実を守り通そうとする人たちの、勇気、憤り、その言葉の重さ…

この監督は、戦争をティーンの頃に体験し、自身父親をこの事件で亡くしています。戦争体験者の描く映像は、戦争を知らない世代が描く映像に比べて、とてつもなく暗くて重い。ヒトラーとスターリンという悪魔に続けて支配された、ポーランドの人々の悲痛な叫びと、真実を残しておかねばならないという強烈な意思が、作品全体から痛いほどに感じられた。

単にホロコーストというだけでなく、歴史のいたずらと言うにはあまりにも残酷な展開によって、真実が力づくで捻じ曲げられてきたということ、そこがこの事件の悲しく特異な点。

知らない人がいたら、以下、私なりのまとめです。ご参考まで
是非、知って、心して観てください。

**** カティンの森事件 ****

独ソ占領下の1940年4月、ポーランド東部カティンの森で秘密裏に行われた、ソ連軍(= 赤軍)による、ポーランド軍将校の捕虜に対する大量虐殺事件。

(1) ポーランド分割
1939年8月23日ナチスはソ連と独ソ不可侵条約を結び、その僅か1週間後の9月1日にポーランドに侵攻、その2週間後9月17日今度はソ連がポーランド侵攻を行って、たちまちポーランドは2つに分割占領された。多くのポーランド兵が捕虜になり、ポーランド政府は亡命政府をパリにつくった。

(2) 独ソ戦
戦争を有利に進めていたナチスは1941年6月、突如ソ連に侵攻をはじめ、独ソ戦が始まった。対ナチスで利害の一致したポーランド亡命政府とソ連は、協力してナチスと戦うために、ソ連の捕虜となったポーランド軍将校・兵士を釈放することに合意した。しかし大量の兵士(将校約2万人、兵士約20万人)の消息が行方不明であることが分かったため、亡命政府はソ連に問い合わせたが、満足な回答は得られなかった。

(3) 事件の発覚
独ソ戦が開始してすぐに、ナチスはカティンの森を含む地域を制圧した。そして1943年春になり地中から大量の死体が発見される。ナチスは調査を進め、これが1940年春のソ連軍による捕虜虐殺であるという傍証をつかむ。そして映画を作りソ連非難の宣伝に利用した。

(4) ソ連による「真相究明」
しかし戦況はドイツが不利になっていき、1943年秋にはソ連軍が再びこの地域を制圧する。そして今度はソ連が事件の調査を開始し、事件はドイツ占領下の1941年8月~9月に行われたもので、ドイツ軍の犯行だと結論づけた。このソ連の主張を、ポーランド亡命政府は受け入れなかった。

(5) ワルシャワ蜂起
1944年6月、敗走するドイツを追い、ソビエト軍(赤軍)はワルシャワ近郊まで迫った。ソビエトはポ-ランド国内のレジスタンス組織(“ポーランド国内軍”―ポーランド亡命政府が指導)に蜂起を呼びかけた。この呼びかけに応じて、8月1日17時、国内軍は一斉に蜂起をした。

しかし、ソビエト赤軍は動かなかった。戦況を即日聞いたヒトラーは、赤軍は援護するつもりはないと判断し、蜂起の弾圧とワルシャワの徹底破壊を命じた。軍備に勝るドイツ軍によってポーランド国内軍は追い詰められ、10月2日に降伏、蜂起は失敗に終わった。この蜂起により22万人が戦死・処刑された。

(6)ソ連の支配
1945年1月になりようやくソビエト赤軍は進撃を開始、ナチスを撃退し、廃墟となったワルシャワを占領。そしてレジスタンス幹部を逮捕、自由主義政権の芽を完全に摘み取って、傀儡政権を樹立。ナチス崩壊後、ポーランドは形ばかりの独立をしたが、実質的に支配したのはソ連となった。ソ連は、カティンの森事件はナチスドイツの犯行であり、事件は1941年の出来事であるという情報操作を徹底的に行った。