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リグレット
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『リグレット』に投稿された感想・評価

菩薩
3.7
『倦怠』とやってる事も感想もほとんど同じなのにこっちの方が圧倒的に面白いと思ってしまったのはどうしてなのか真剣に考えてしまう。相手が一応はそれなりに成熟している相手だからか、一応はベクトルが合致している相手だからか、それとも突如テキサスチェンソーを始めるフランクっぽ過ぎるフランクが一役買っているからか…。愛と性欲の前で人間はどこまでも無様、たかだかSEXにそこまでの執着を傾けてしまえるのはむしろ幸福なのかもしれないが、全て失うわけでも無く何それなりに新しい幸福を手に入れてんだよクソ野郎…とそれなりに殺意が芽生えた、からの無限ループ…もうこうなったらどっちかが死ぬかするまで続いていくんでしょう…。いい歳こいて「変わらないね」と言われるおっさんはヤバいを再認識した、音楽がフィリップ・グラス。
3.5
今回の新文芸坐シネマテークはセドリック・カーン監督の特集だ。全く知らなかったが、去年特集していたモーリス・ピアラ監督の助監督からキャリアを始めた弟子のような監督らしい。次週上映する「ワイルド・ライフ」はダルテンヌ兄弟がプロデュースに関わっているらしく気になっているが、予定が合わず行けなくて悲しい。

本作はトリュフォーの「隣の女」にインスピレーションされたらしく、再開した男女の恋が燃え上がり暴走していく様が描かれる。母の病状が悪く地元に戻ったマチューは昔の恋人マヤと再開する。このときのズームする切り返しショットが印象的だった。マチューは妻と建築事務所を経営していて、マヤは夫と娘と三人で暮らしていた。しかしマチューがマヤに夕食に招かれた事がきっかけで、二人は再び燃え上がってしまうーー。

その後は、建築事務所のあるパリと地元の来るまでの往復(オープニングは地元へ向かう車のシーンから始まった)など、車移動を介してストーリーが進んでいくのが印象的だった。移動の緊張感は「寝ても覚めても」を思い出す。最後のシーンも、見方を変えるとまた序盤のシーンに戻ったとも思える再会で、無限に続く感覚を得る。傍から見ると理解できないが、こうなってしまうならしょうがないのかなという謎の納得感もある。
✔️🔸『リグレット』(3.5) 🔸『ワイルド・ライフ』(3.6)🔸『祈り』(4.4) ▶️▶️

 フランス現代映画の、名前は聞いたことありだが、全く実態は知らない作家。センスというより、基本の姿勢の乱れなさに感心もしてく、3週連続の特集。はみ出しが止められず、また体系化の気配も見せてくる作品群。
 『リグレット』。確かにアナログデジタル変換時の対象の動きの時おりの不規則さは気になったが、そもそもベース素材からして端正な押さえ方・流し方に、時と場を似てる空気で一挙に抜け走る基本タッチにある面合致もしてる。逆にじっくり考えるシーンでは時を止めるように、ときの流れに反する熟慮に相当する角度変も。
 トリュフォの『隣の女』にインスパイアされた映画らしいが、確かに畏れやせっつかれ、から前後考え抜く前に逃げ出し姿消し、また追いかけすがりはじめてもいる二人の関係。タッチとしては短い期間のよもや話の感じで、スッスッと近い未来に場が跳んでたりするも、途中3週間とか3年とかいきなり空白が入り込む。一緒に暮らすパートナーも、前パートでは揺るがせない盤石感があっさり別人に入れ代わってる。このイージーさ、この訳も分からないせっつかれ感、無責任踏まえが味わいとなってく。
 建築家夫婦と、農園目指し夫婦ね片割れ同士が10数年振りに公然再会、焼け木杭に火がつき、常識を越え綱渡りの逢瀬、が以前と逆に女の方が、?「傷付くを恐れ、逃げる」。いい加減でかつホットさ褪せぬ二人は、3年後パートナーも平然あっさりと入れ替わってて再会。繰り返しへ。
 切返しや90゜変等しっかりしてるが、1人外へ歩きだすと、似た図ながら場はどんどん移ってっる。車運転の半主観のびやかショットも多く、感覚的に節度は当然ながら壊れ、止まらず、また恐れも生まれ拡がり、求めと拒みが内省なく互いに同等の大きさで拡がり、言動もカメラ動き・タッチも激しさを逆への戻り考えずに、大きくしてく。確かに映画の本質に合い、面白さは断然伝わり続ける。
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 2本目『ワイルド~』はより伸びやかに成長し、じっくり映画の本分に沿い、映画的無理のない作になってる。自然の中にどっぷりはまったキャンプで知り合った二人が、連れ子と生まれた二人と共に、文明と切り離された中で暮らし始める。しかし、二人の行き方は違ってきて、裁判で妻は親権と普通の家暮しを勝ち取る。夫は自分に向いてる子供たちを奪い、姿を隠し名を変えて、コミューン内で真実は隠して10年間隠とん逃亡生活を通す。自分の子ではない長男は端から離れるが、残った二人の上側は恋もし、通せぬ恋に鬱積し、爆発・警察へも通報する。しかし、元より子供らは逢う必要を感じてた、やって来た母は捕まった夫への訴えを取り下げる。
 「空と木と摂理だけの世界」「学校教育の法(律)が義務なのではなく、(自己責任の)教育が義務と言うべき」「裁判所の決定への、一喝・抗議の行動が元」「母に逢わなくては、訴えを取り下げへ」
 90゜変などしっかりした切返しや押さえの正統力は前作より上。自在で荒々しく切羽詰まった手持ちフォロー移動へ移行も自在。クラシックや憂鬱を反映したリリカル音楽と、それに完全に拡大し合う陽光や暗みの橙や碧めの空間や艶ののびやさか。回想シーンやズームも普通に入るが、10年経過はちと力を失わせる。より純粋な本格派である。
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 そして『祈り』である。余計な飾りが時に目についた二作に比べ、これはほぼ、等身大の、過不足を抱えたままの姿勢優先の人と組織が、描きつけられる。祈りが重要視され、神やキリスト・マリア・精霊に全霊を傾け、止める事は自由だが、居るかぎりは酒・女・麻薬他、ルールとして手を出せないものは厳しく、愛や友情が最北に位置ずけられ、嘘や暴力による裏切りは、直後に迷う間もなく周りへ謝らねばならぬ。無理強いでなく流れが元より存する。その生活習慣のポジティブ・前向きだけが、直感的にグループの方向を舵取り、それは含みがない分、総体として道を誤ることはない。個人個人は本当に神を信奉してるか、自分でもよく分からない。只、損得勘定や自分だけの見返りと無縁の処で、形にならぬ祈り・友情だけに囲まれ、盲目の意志だけが知らぬ内に研ぎ澄まされてく。もとより深い信仰に目指したものではないから、社会復帰が見えてきて、が主体ある、何にも影響受けぬ、周囲と自己の関係が築けてる。
 男だけ、女だけの何グループが近場にあって、本人のやりきれぬ意志や周りの配慮で送り込まれてくる。ヘロイン等のジャンキーやアル中に苦しむ自己を制しきれぬ者が集まってる。自らもそういった苦境から這い出た、年輩の創始者を迎えての宴のとき、ハンナ・シグラ扮する彼女は、当初から孤立度や自己流が過ぎた主人公に、幸せかと問い、頷くとその度に強く殴打する。自分を偽っての「嘘」を見抜いての、最も深みで認められないもの提示。
 主人公の青年はここにきて、暫くすぐに逃げ出し、イギリスに帰りたいと変わらぬ侭だが、彼に親切にしてくれた夫婦、とりわけ、彼を車で送りる筈が逆にもどるを勧めた、ここ出身・スペイン考古学行き待機の若い女に影響される。戻り皆との協調性も生まれ、それを体現したようなスタンスに変わり、彼女をお礼に訪ね、催しにバイト帰りに寄る約束を取り付け、それを裏切られた喉の骨が知らず強まっていたのだ。
 そして嘗ての自分以上に不適応な新入りの死に取り乱し、彼女を訪ね強引だが当然如く結ばれ、また、皆との登山で歩き下手で遅れ、急ぎ転げキズを負うも、耐えて痛みも抜け、帰還できた神の救われしお陰を感じる。彼は神学校を目指し、その真摯さに推薦も受け、皆の暖かい送りだしを受けるも、一番の親友、妻子とこじれ飛び出し、今は改善されてる男から、約した事に縛られず、直前まで決定を変えうる、その正直さはゆるされてる、直前まで選べる、を聞く。そして、神学校行きのバスを途中降りると・・・。
 初終をバスに乗ってる横顔(明るさや主体性は対称的)で括り、他作でも愛着ある車内さらの主観移動ショットが使われてるが、およそ癖といいものを排したタッチで、対象についすてのパンがあるくらいで、作り手の意志を反映する移動ショットの縦横が皆無であり、歩き着いてのどんでんらはあるも、立体力に結び付くカッティングもなく、距離や立体はレンズの望遠の度合いが伝えるくらいだ。90゜変や人物らの異変、アップ押さえらも、映画的単位として括られるに役立つことはない。只、音楽音響は不安なものからストレートにポピュラーなものまで、現実音・演奏の拾いの多様性かなとも思わせもするが、あきらかに載せ作ってるものも自由に混じってる。しかし、ブレッソンのような、飾りを捨て研ぎ澄まされたものではなく、どこにでも転がってるタッチだ。只、それ以上には踏み出さず、雨・雪らの季節、日々では朝や夕や日没・夜、いつしか時や意識も進み、いつの間にかではなく、スタンスも進むというより変わってゆく、無理なく、こちらの下世話さから逸脱せずに。その中から、突然不安定な主人公の暴れだし、あれよあれよ逃げ出し、諌められる老女からの止まらないパンチ、他人の乱れ噴出と対応慣れ、ラストいきいきスイスイ場と表情を柔らかく変えてく推移、ら何ヵ所かで外からでなく、内からカメラは揺れ荒れうごめき、規定できない状態と表現、その止まらぬ勢いの内在も見せてくる。目に見える成長は否定され、その時々と、傍目からの進化が見られるだけだ。友から兄弟へ、神の道への志しで進展など許さないのだ。しかし、それでも成長は存在する、神とは別次元で、しかし確実に神のおかげで。只、一般に見えない処で不可思議しぜんに。特殊やその更生を、その一員ながら断乎拒み、1人との出会いで普遍への繋がり見いだし、更に上位へ向かうも、個へ改めて戻る、主人公演じる俳優の目力の尋常なさは本物で、その溶解もまた。
 優れた作家の作風の真逆の、そっちへ踏み出さない、しかし進展や対照にいつしか配置が行われてる、現実の力と不可思議さを教えてくれる作だ。こういうのこそ、映画の基盤として大事にしたいとも思う自分がいる。