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母のおもかげのotomisanのレビュー・感想・評価

母のおもかげ(1959年製作の映画)
4.1
 母親とは良くも悪くも自分の一部に違いない。これは構成要素というより積み荷のようなものであって構造体と調和するとは限らない。しかし、オーバーロードでも詰まされ積まねばならない場合もあれば、積むネタがなくて飛び立てない息子もあらわれるのである。適正量の積み荷を適切に扱えてこそ安定飛行も可能なのであって、積みすぎも荷不足も荷崩れ、安定不足の元となり息子は危機を出来する。
 積み荷不足のまま新しい「母親」を迎えるべくこころのステップアップを要する道夫だが、努力だけでは飛び上がれない。失速し、乱気流やニアミスに遭遇しながら荷不足な自身の不安定さを克服するのだが、やはりそんな自助でも足りない。なお、この積み荷とは架空のものに過ぎない。しかしその無質量の存在と現実の相手とを秤にかけては非現実の重さに負ける自分を嫌になりながら飛び上がることも試練である。そんな辛さを言葉にして吐き出せば或いはこの苦境を周囲が気付いてくれるかもしれないし、道夫を不可解と投げ遣っていた周囲の空気も整ってゆくかもしれない。
 最後に新しい母親を迎える道夫が新しいステップに到達したのかはわからない。荷崩れた母のおもかげを克服したのかもわからない。しかし、架空の重しに現実の人の重さがついに勝ったのである。道夫の日々が同じ息子らの処方箋の基本となるとは思わないが、事を壊れるまで壊し切っても沈着に言葉で整理をつけ主観だけではない、たった今書き出した自分の言葉に自分の目と心で向き合う他者なる自分を感じ取り、その心をもって他人も眺めるようにおのずから心が育まれるのだ。そうして、新しい母親の何者かも整理されて受け止められるようになる。
 道夫にとってあのひとは依然「おかあさん」という別人であるのだろうがその関係がぶれることはないだろう。ひとつのお母さんという積み荷として積まれいつか飛び立てる自分に気が付いて親を忘れる時を迎えるのだ。
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