ニトー

夏の庭 The Friendsのニトーのネタバレレビュー・内容・結末

夏の庭 The Friends(1994年製作の映画)
-

このレビューはネタバレを含みます

相米信二の映画を観ると、毎度「生と死」みたいなものを意識させられる。これまで観てきたこの人の監督作は、「あ、春」以外はそのどれもが少年少女を主役としていて、そのどれもがリビドーに溢れた(おもらし含め)存在として描かれている。「夏の庭」においては、小学生三人組でしかもサッカー小僧という、なんというかこう、ある種のユニバーサルなノスタルジーを喚起してやまない存在で、ともすれば序盤は「スタンドバイミー」を想起したりもするのだけれど(「死」に興味を持つ、という導入がまさに重なる)、しかしロードムービーとしての趣を強く意識させるあの映画とはまた違うのは、ひたすら発散される小僧どものエネルギーの裏に隠された(いや、厳密には隠れてすらいないのだが)、というか裏打ちされた死の存在感だろう。言ってしまえば、「スタンド~」の方はひと夏の冒険であり、「死(体)を探しに行く」という行為により「死」を少年たちにとって特別なものとして描いている。
しかし、この映画は探しに行くまでもなく「死」はすぐそこにある。毎日通い詰めることのできる距離に、だ。立ち並んだ団地の、適当に据え付けられたブランコから見下ろせる日常空間の中に、決して特別なものではない身近な存在として「死」はあり、それはこの映画の物語のきっかけとなる「山下少年の祖母の死」という話から、喜八(三國連太郎)という明確な形を伴って立ち現れる。

相米信二の映画は、その主役の子どもと同じくらい重要なモチーフとして大人の存在がある。それはおそらく、生と死の結節点を生じさせるためなのではないか。特に、本作の喜八という、明らかに生い先の短い(というか、それを噂で聞きつけた三人が「ジジいが死ぬのを見にくべ」と行動を起こすわけで)、死の予感を纏う老人だ。死を誘引する存在としての大人は、本作では登場の時点で死を約束されたようにすら見える。
それは、「少年」という「生」との邂逅それ自体が「老人」の「死」を(物語的必然として)想起させるからに他ならない。

特有の長回しが「その瞬間」を延長…遅延させることであるとするなら、本作では生と死の交わりとしてのノードがそのまま引き延ばされ続けているように見える。だから、喜八とその嫁のエピソードというのは、正直なところどうでもいいとすら思える。せいぜい彼の戦争体験の話くらいであろうか、この映画の本質として必要なのは。なぜなら、すでに書いたように喜八の死は彼の登場時点から予期させられているので、最後に至るまでがほとんど予定調和とまではいかなくても見え透いたものであるからだ。

「少年」たちと「生」を謳歌する「老人」の時間が刻まれていることが重要なのであって、お話自体はほとんどいらない(少なくともこの映画においては)のではなかろうか。
だからこそ、エモーショナルに仕立て上げる必要があると言えるのかもしれないけれど。けれど、死は私たちのすぐ傍に横たわっているものだ。善も悪も良し悪しも、物語すらも後付けされるものでしかない。死は単なる事象であって、その理由などというのは物語を糧にする人間に特有の渇望だ。だから、ああいう形で彼らの当初の願望(じじいが死ぬのを見る)ことがああいう皮肉な形で達成されたからといって、「皮肉なことだ」などと思うような阿呆はいますまい。

葬儀の場でのとってつけたような親族描写も、その様子を窃視的に演出するのも、すべては喜八の「死」という圧倒的な虚無の現実に花を添える程度の強度しかない。柄本明が言う「死は穢れではありません(意訳)」という言葉にあるように、特別なものでもなんでもなく、ただどうしようもなくそれは「在る」だけだ。それを強烈に意識させるための「少年」であり病院であり家族であり夏であるだけなのだろう。

ラストのファンタジックな演出も、観客にとって必要なエモーショナルなものでこそあれ、「死」にとって必要なものではない。ただそうすることで、それを宗教や神秘として語ることでしか理解できない(池田昌子的に言えば「死はない」)ヒトの(愚かしくもある)営みなのでせう。


相変らず危ない撮影してるとこもあって無駄にハラハラさせられましたよ、ええ。
ニトー

ニトー