レインウォッチャー

裸のランチのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

裸のランチ(1991年製作の映画)
4.5
その奇怪で幻惑的な構成や強烈なヴィジュアルばかりが取り沙汰されがちだけれど、実はとても「優しい」映画だと思う。

『裸のランチ』と銘打ちながらも、同題の原作小説とは内容がかなり異なり、どちらかといえば作者であるW・S・バロウズの伝記映画ともいえる仕上がり。

そもそも原作『裸のランチ』は、直線方向に進むストーリーを持たない作品だ。バロウズが、ドラッグ中毒の譫妄状態で見た光景や降りては消えたアイデアを書き散らした断片がコラージュのように継ぎ合わされ、禁断症状の恐怖、セックスと同性愛への執着、虚実不詳な医学的知識・注釈・風説が、内臓に取り憑いた九龍城のように違法細胞分裂を続けていく。
小説なのか回顧録なのか詩なのか、判別がつかないまま修飾語が過剰増殖し、のたくって脱線する。つまり「読めない」(=読めなくていい)本なのだ。

そこをこの映画では、バロウズが『裸のランチ』を書き上げるまでにどんな風景を見ていたか…のほうにフォーカスし、クローネンバーグ流のフィルタに引き込んで表現した。結果的に、幻覚と現実が混在する世界ながらもストーリーは一定のベクトルを得て、冷静に観ればシンプルといえると思う。

主人公のビル(P・ウェラー)はバロウズの分身であり、劇中で起こることの一部は事実に基づいている。ところどころで引用される文章やエピソードは原作由来のものだし、妻ジョーン(J・デイヴィス)を酩酊中の「ウィリアム・テルごっこ」で誤って射殺してしまった事件もそのひとつだ。

この出来事は、大きなトラウマであり、運命の象徴となってビル(=バロウズ)に圧し掛かる。それは単に罪悪感や悲劇として、というだけではなく、彼がドラッグ中毒であろうと何だろうと「作家」であり続けることと大きく関わりがある。

彼はスパイとなった妄想の中へ逃げ込み、その中でジョーンを再び取り戻そうとするけれど、結局は現実=書くことから逃れられない。
タイプライターは肛門や性器をもつ大きな喋る甲虫と化し、彼に報告書を書けと(しかも素敵な文章で)迫る。一度はそれを殺し(壊し)ながらも、やがては取り戻す。ビルの友人たちは、妄想世界に登場してなお「書きあがるまで粘れよ」と励ます。

書くことは、強迫的に彼を苛みながらも、同時に彼にとっては幻覚に抗う唯一の手段でもある。ドラッグ中毒の体験も、妻の事件ですら、作家にとってはネタになる…いや、作家の性として「せざるを得ない」からだ。
妻の事件は、ビルに『裸のランチ』を書かせた=作家として再起させたことのきっかけのひとつともいえる。彼は劇中で「彼女なしでは書けない」と言うけれど、言い方を変えれば「彼女の『死』なしでは書けない」ということだろう。妻の死が彼を打ちのめし、同時に作家としての彼を作った。この運命のからくり。

この映画からは、そんなビルに対するD・クローネンバーグのシンパシー/エンパシーを感じることができる。畑は違えど、同じ創作者としての共感があったのだろうか。
その目線は、他のクローネンバーグ映画の登場人物に対するものと同じだ。ハエ男としての追求を止められなかったセス、体内の美に囚われたマントル兄弟、男を女と信じ愛し続けたルネ…。

特にラストシーンにおいて、この寄り添いの姿勢は一層深まって感じられる。「作家だ」とふたたび宣言するビルの姿は、残酷でありながら哀愁に満ちており、あらゆる創作者にまとわりつく業を巧みに表現している。
妄想からの解放をゴールにしなかったところも、実に「らしい」。創作者である以上、彼はこれからもこの世界で戦っていかなくてはならないからだ。

これは厳しさや冷たさではなく、正常と異常の境に疑問を投げ続けるクローネンバーグによる何よりの優しさなのだと…受け取ってみたい。

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もう本当に笑ってしまうエログロ特撮ヴィジュアル&超展開の数珠つなぎで、半分はコメディと言って良いと思う。
しかし異常な作り込みで様々な趣向が凝らされる中、瞬間最大風速的にウケるのはべりべりべり→ベンウェイでした!なんだよなあ。

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音楽もまた尖ってて、いつメンのハワード・ショアがフロントにオーネット・コールマンを召喚。彼のサックスが熱病的に吹き荒れるのと呼応して映画も加速していくとき、快感が迸る。