近藤啓二

サテリコンの近藤啓二のネタバレレビュー・内容・結末

サテリコン(1969年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

時おり、この映像に浸りたくなって見なおす個人的ベストムービーである。

これを書くに当たりウィキでざっくり調べたところでは、

〇ローマ時代のペトロニウス作「サテュリコン」が原作。

〇ペトロニウスは暴君ネロの臣下であり、遊び仲間でもある。

〇「サテュリコン」は散逸してしまい、現存するのは三つの章のみ。そのうちほぼ完全に残っているのがこの映画で再現された、貴族トリマルチョーネの饗宴の第三章。

〇原作は堕落したローマ当時の風俗を細かく記録しているので、史料的価値も高い。


映画は今では映像情報の意味合いが圧倒的に増えてしまったが、かつては劇場でしか見ることができない映像体験であった。
大衆娯楽と同時に、芸術志向の大作も多く残されてきた。
観客側にもそれらを受け止める強度が求められ、シネフィルと呼ばれる層を育てる土壌でもあっただろう。

この映画のある種、難解さと受け止められるものは、映像体験という参加を自発的に持てない所以かと思われる。
CG映像が行き過ぎると、飛び回るスパイダーマンのような画面は、誰も経験したこともない速度表現や俯瞰アングルなどが氾濫し、逆に心底から感情を揺り動かすものは得られなくなる。
「超能力を持った人の視野ってこうなんだな」という客観的、表面的なものしか持ちにくい。
これはただ、わっ!と大声出されて驚く咄嗟の反応のようなもので、感動でもなんでもない。
感動としては残りにくい。

映像にかぎらず、創作物に触れるという体験は「人が生み出すものへの参加」だ。

この映画は巨大な建築物、巨石像、大量の人員と崩壊のスペクタクルなど、ものすごい物量で再現された壮大な見世物小屋である。
後記するが、分かりやすい物語があるわけではない。
ただただ極彩色で、グロテスクな人々が舞台に登場しては消えていく舞台を観ているに過ぎない。
時折、カメラ越しに人々が目を合わせてくるのは、これが演劇、作り話の見世物である、というある意味、お約束を破る意地悪な合図なのだ。
現実とスクリーンの間にある第四の壁を越えて、彼岸へと参加を促しているとも感じられる。

この映画の物語らしい物語がない、ある意味ブツ切りでゴロゴロとした塊のような展開は、おそらく原作の存在そのもののイメージを伝えようとしているのだろう。
我々が知るのは、散逸した太古の三つの章のみなのだ。

ラストカットは、アフリカに向けて旅立ったと思われる主人公の姿、登場してきたキャラクターたちが、風化した石板に描かれている。
急に現代に戻され、寂莫とした風がハープの音色と共に通っていく。

"これまで皆さんがご覧になったこの狂乱の物語も、遠い昔のこと。
いまとなっては、それに思いをはせるのみ…”。

より経済的に、より効率的に、を追求されると、最期はどんなものでも形骸化する。
どれだけ豪奢なCG映像を作っても、驚きがない。
「ああ、CGね」と、種あかしが一つに集約されてしまう。
贅沢が過ぎゲップや放屁をしながら、肉に食らいつくこの映画の貴族たちに漂う、刹那的な享楽のようなものだ。

「どうやって作ったのか、いやそれよりも、なぜここまでやったのか」。

理由なき通り魔、無差別殺人などと同様、人の手によるものほど、合理を超えた黒い無限を感じさせるものはない。

まだまだ新しいものに飢えていた時代、この「サテリコン」のように得体の知れぬ力が映画にはあった。
近藤啓二

近藤啓二