Azuという名のブシェミ夫人

魔術師のAzuという名のブシェミ夫人のレビュー・感想・評価

魔術師(1958年製作の映画)
3.9
馬車が霧煙る森を行く。
乗っているのは、次の公演先へ向かうフォーグラー魔術師一座である。
やがて街に到着した彼らは検問委員会による催しの調査を受けることとなる。
そのイカサマを暴いてやろうと考える判事たちの家に足止めされたフォーグラー達は、彼らの前で魔術を演じて見せなくてはならなくなった。

ベルイマン監督の作品を観るのは『野いちご』に続いてまだこれが2作目だけれど、たぶん入り易い作品なのでは。
始まりのおどろおどろしい雰囲気とは違って、登場人物達の行動や感情の動きが滑稽であり笑ってしまった。
そもそもフォーグーラー達が如何にも怪し過ぎて、そら疑われるわという感じ。
ドラキュラ伯爵みたいな風貌のフォーグラー博士、男装の麗人マンダ(凄く美人!)、魔女みたいなお婆ちゃん、胡散臭いオッサンに弱虫な馭者。
判事の家ではそれぞれの人間の思惑や欲望が交差して、たった一晩で屋敷中の人間が複雑な関係となる。
メイド達も領事の妻も、あの日常に飽き飽きしていたのでしょうね。
節操無くてなかなか笑わせてくれます。

さて、フォーグラー御一行の魔術とは偽りであるのか、真実であるのか。
“真実”というと動かざるただ一つのもの、というイメージがありますが、しかしながら時にはそうでも無かったりするものです。
人は己が信じようとするもの、または信じたいと願うものだけを自分の“真実”としたがります。
どんなに言葉を並べて説明しようとも、目の前にそれを提示しようとも、心が認めなければ人にとってそれは意味を成さないでしょう。
一度心に芽吹いた疑いというのは、なかなか払拭出来ないものです。
ですから、フォーグラーの魔術がもしも本物であっても、観る者たちに“不都合な真実”であれば、フォーグラーにとっての“真実”はどこかへ消え失せてしまうのでしょうね。
そしてそれは人と人の関係にも言えること。

・・・などと言って人間の深層心理にある恐ろしい雰囲気を漂わせたものの、皮肉めかしているだけで終始喜劇であったと思う。
しかし笑いながら、それも“私にとっての真実”に過ぎないのか・・・と急に真顔になったり・・・ね。