〈生熟れの青年が間一髪で気づく、社会が用意した「理想的な人生」の限界〉
冒頭から、サイモン&ガーファンクルの『サウンド・オブ・サイレンス』が流れる。青年のよこがおは、不安と鬱屈に満ちている。卒業を間近に控えた彼は、型にはめられた理想的な生き方を両親に強いられ、人生の展望に苦悶しているのだ。
だが、そんな「理想的な人生」の “歪な裏側” に突如出くわす。なんと父親の同僚夫人から誘惑を受けるのだ。『60年代アメリカ映画100(芸術新聞社)』によれば、彼女は中身のないプラスチック社会の犠牲者。社会の掲げる理想は限界を迎えはじめているのだ。
受動的な彼は、その場で起こる出来事に逆らうことができない。何ひとつとして、自分の意思で選択をとることができずにいる。だが、そんな彼がついに覚醒する。終始ドタバタとして頭が追いついていないが、確固たる意思で自ら行動を選択していく。
そして、かの有名な式場のシーンへ。撮影もハンドカメラへと切り替わり、さもドキュメンタリックな面持ちだ。ああ、よかった。めでたしめでたし。これでハッピーエンドだね。
と思いきや、だ。再び『サウンド・オブ・サイレンス』の物悲しいメロディが流れはじめる。式場から抜け出した2人も表情が浮かばなくなっていく。本作もまた他のアメリカンニューシネマ諸作と同様、最後はわたしたちを現実へと引き戻すのだ。抑圧からの脱却はそう易々とは叶わない。