優しいアロエ

パリ、テキサスの優しいアロエのレビュー・感想・評価

パリ、テキサス(1984年製作の映画)
4.4
〈異邦人の漠然とした孤独と愛の希求〉

 表題になっている“テキサス州パリ”は、つまり男にとって永遠に辿りつけない幻想のようなものなのだろう。妻との再会を果たしてもなお、こころの傷が癒えることはなく、男は「一緒に暮らすことはできない」と手を引いてしまう。

 本作に登場するのは、スペイン系・フランス系・ドイツ系など、決まって欧州にルーツを持つ人間である。ゆえに彼らはアメリカに土地的な拠り所を獲得するのが難しく、家族や恋人といった人間的な関わりに強い欲求が向いている。それは同時に、計り知れない傷を負いかねないという危うさを孕んでおり、主人公トラヴィスはその負傷者だと云える。

 本作は、アメリカ西部のロードムービーという典型的な映画ジャンルに包含されているが、しかしそこに欧州人監督から見た“アメリカと異邦人の関係”が刻まれている点で特殊である。アメリカ人が自由に焦がれて荒野へと飛び出したり、都会のなかで孤独に苛まれたりするのとは訳が違う。本作の登場人物たちにとってアメリカの景色はつねに無機質であり、移動に伴う景観の変化もあまり大きな意味を持たないように思える。
『アメリカの友人』で満足のいく結果を出せなかったヴィム・ヴェンダースは、人間との関係からしか生き甲斐を得られないストレンジャーに無機質な荒野と都会を彷徨させることで、自分にしか紡げない独自の物語を構築した。その点では、ヴェンダースの弟子分であり同じくドイツ系であるジム・ジャームッシュの諸作品とも近い趣きを覚える。

 また、満身創痍のトラヴィスやその妻ジェーンとの対比として、同じく他国ルーツながらもカリフォルニアに溶け込んでいる弟一家の存在が提示される。特に妻同士の対比(オーロール・クレマンとナスターシャ・キンスキー)は痛烈だ。あのカタコトのクレマンの存在あってこそ、後半、流暢に英語を駆使するが悲劇的な末路を辿ってしまったキンスキーに涙が誘われるのである。ホームビデオのなかでこそ幸福感を湛えていた二家族であったが、歩んでいく道筋は対照的なものであった。ただし、弟一家(特に、クレマン)にも人間関係への強い希求があることは、息子との電話越しの別れなどから明白だろう。

 一方、寡黙な主人公トラヴィスは、何らかのフィルターを媒介することで胸の内を語る力を得る。元妻とはストリップクラブのマジックミラーを通すことで、息子とはトランシーバーを通すことで、過去へと泥臭く遡上し、最後はなんとも身勝手な目的を達成する。後半からだいぶ感傷的なほうへと寄ってしまった気がするが、それでも致命的なレベルにまで達しなかったのは、ライ・クーダーのスライドギターが絶妙な乾きを与えていたからだろう。
優しいアロエ

優しいアロエ