ろ

8 1/2のろのレビュー・感想・評価

8 1/2(1963年製作の映画)
5.0

「あるがままのぼくを受け入れて、再出発を」

新作の脚本、まだ出来ないの?
私の役は?自分の役を知っておきたいのよ。
撮りたい映画の構想は全然まとまらなくて、ああすればこうすればって言われるほどアイディアは湧いてこなくて、わざわざ言われなくても自分で自分のことが厄介でたまらないよ。
前を向いて進みたいときほどその覚悟は決まらなくて、過去と理想の間で揺れて、退屈で思い通りにならない現実から逃げてしまう。

葡萄酒のお風呂と濡れた体を包みこむ大きなタオルケット、お宝のありかを教えてくれるという魔法の言葉’ASA NISI MASA’。
ルンバを踊るサラギーナのいたずらっぽい目つき、手を叩いてはしゃぐ子どもたち、追いかけてお仕置きをする神父。
「子ども時代の罪のない思い出を描いて何になる。君は郷愁に浸ってるだけだ」

肉感的な愛人と簡素な妻は朗らかに語らいながら歩く。
反旗を翻す女たちの中で、妻だけが一人「夫の言うことが規則なのよ」と落ち着き払う。
そんな理想とは裏腹に、試写を観る妻は苦々しげに爪を噛み、タバコを吸い、腹立たしく襟もとのボタンを外す。
「気に障った?あれは映画だ」
「そう、映画よ。しかも嘘。二人のことを暴露しても自分に都合のいいことばかり。人様に何を教える気?妻にさえ素直になれない男が」

「情婦、妻、枢機卿、サラギーナ。迷っている時間はないんだ。このままだと映画界の笑いものになるぞ、すぐに撮影に入れ」
映画の題材を絞るようプロデューサーから迫られるグイド。
そんな中、若く美しい女優クラウディアに再会する。
「すべてを捨てて再出発できる?1つのものを選び取って、それに人生を賭けられる?クラウディア、君ならできるかい?」
「あなたにはできる?」
「この主人公にはできない。失うことを恐れるあまり消耗している」

しょっぴかれるように臨む新作映画の記者会見。
さまざまな言語の質問が飛び交うが、グイドは一向に口を開かない。
このまま、製作者にのせられるままにSF映画をつくるのか、グイドが選んだ結末は・・・。

過去を葬りたいと願い、愛を信じず、誰をも愛せなかったグイド。
思い出に逃げ、幻想に逃げ、役を欲しがる女優から、損をさせるなとプレッシャーをかけるプロデューサーから、妻から映画から逃げて、自分自身から逃げた。
だけど逃げ切った先にもう逃げる場所はなくて、代わりにまた新しい道を見つけた。

拒否されたと思っていたものは全部、自分が拒否してきたものだった。認めたくないと拒んだものは、初めから自分の中にあるものだった。
ロケット発射台の階段から、今まで出会った人たちがにこやかに降りてくる。
「急に嬉しくなって力が湧いてきた。君を、そして僕を受け入れる、愛するよ。なんて簡単なんだ」
友人、愛人、両親、そして妻。
黒い服を着ていた子どもの頃の自分は白い服を着ている。フルートを吹きながらスポットライトを浴びている。


( ..)φ

「どこへ逃げる気、おバカさん」
なんてあったかい言葉なんだと思った、なんてあったかい映画なんだと思った。
結局グイドを癒したのは温泉じゃなくて自分自身だった。悩んでいる人に全力で寄り添うこの映画はすごく優しい。

煙が充満する車からあたふた逃げようとする。窓をこすったり脚で蹴ったりするけど全然出られなくて、その様子を周りの車からじっと見てる人たちがいる。
自分の問題は自分にしか解決できない。逃げ道を探すのも苦しむのも、それぞれに用意されたシナリオみたいなものがあるのだと思う。やっとの思いで車から出て、外の空気を吸って、空を飛ぶ解放感。その喜びを味わうためにはやっぱりもがくことがとても大事なんだ。

鏡に映るやつれたグイドとワルキューレの騎行、泥風呂とマッサージの行列、番号を読み上げるスピーカー、サラギーナの腰つき、木製の窓からちらつく海、鞭をしならせながらカウボーイハットを撫でるグイドの横顔。
10月2日にテアトル梅田のフェリーニ映画祭で観てから、映画を観ていない間も思い出しては感動していて、今日DVDを取り寄せてまた観たばかりなのに、もうグイドに会いたくなってる。

こないだ読んだ本の一節がラストシーンとピッタリだった。
この映画は未来の自分へのエールになると思う。

「私たちはまるでひとつの大河のように、さまざまな支流から少しずつ影響を受けながら、自分の個性というものを形作っていきます。
私たちの個性は私たちの人生の履歴書であり、人生の道中で出会ったさまざまな人々、さまざまな経験の集大成なのです。
あなたの個性がどんなものであっても、この世にたったひとつしかないその個性を、愛おしんで、大切にしてください。」
ろ