あなぐらむ

エグザイル/絆のあなぐらむのレビュー・感想・評価

エグザイル/絆(2006年製作の映画)
5.0
傑作「槍火」の流れを汲むトーさん風味全開の作品となれば、キャストの顔ぶれだけでニヤニヤしてしまうのは俺だけではあるまい。

「槍火」との違いはジャッキー・ロイに変わってトー組(ヤクザみたいだな)になったニック・チョンが加わっている点。
それにジョシー・ホー、特別出演のリッチー・レン、組織のボスにサイモン・ヤム兄貴が加わるという何気に豪華キャストの布陣である。いや、豪華ってのは俺にとって豪華なんだけど。

見終わって思ったのは、何と言うかな、もうトーさんは自らの思うままに映画が撮れてるんじゃないかな、ということ。
80~90年代に硬軟取り混ぜてウェルメイドな娯楽作品を多く手がけてきた彼にとっては、もう引き出しはパンパン、目を瞑ってたって傑作ができるんじゃないかってぐらい、この映画の構図、セリフ、音楽はどれもこれも全くムダもスキもない。
とても完成された脚本がないってのが信じられんような、そんな奇跡のような映画だと思う。
(なんでも「黒社会」が非常にきつい撮影だったので、好きなように撮りたかったらしい)

監督自身が語るように、本作は彼の監督作の中でも極端にセリフが少ない。
その代わり、と言ってはなんだが、本作ではとても「音」が印象に残る。
そしてそれも含めた「映像」が全てを語る。
冒頭、マカオでひっそり暮らすウーとその妻の部屋にまず、彼を助けるためタイとキャットがやってくる。
ドンドン!とノックされるドアの音、風に揺れる風鈴の音。ボソボソと交わされる会話。ウーはいない。
彼を待つために外に出た二人に入れ替わるように、今度はウーを殺す命を受けたブレイズとファットが訪れ、ドアをドンドン!と叩く。
この繰り返し、そして続く公園で対峙するタイとブレイズのシーンをクレーン移動のワンカメで捉えると、かつて親友だった5人の立場が短いセリフで明確に示され、タイの手の葉巻がジリジリ、と焼ける音が両者の緊張を伝え、そしてタイの指がその灰を吹き飛ばす・・・。
この一連の映像はもう、それだけで観る者を一気に映画に引き込み、そしてずっとその作品世界に浸っていたい気持ちにさせるほど饒舌だ。そしてその緊張を破るように、ウーが戻ってくると物語は一気に動き始める。

トーさんの映画では、生と死が背中合わせになっているかのような感覚が常にある。
本作で言えば、直前まで銃弾を交わしていたウー、ブレイズ、タイが次のシーンでは、キャット、ファット、ウーの妻と一緒に食卓を囲んで黙々と食事をする。
トー作品におなじみのシーンだがその食事の最中、茶を飲んだブレイズが妙な顔をする。
傍らには先ほどの銃撃戦で穴が開いた鍋がある。
ブレイズが口から何か吐き出すと、それは銃弾だった。
死の断片が不意に食という生を象徴するような行為の最中に現れる、そのギャップ。
それは中盤の闇医者の一室での銃撃戦にも言えて、怪我を治療する場所で激しい死のやり取りが行われる。
この一連のシークエンスは、狭い室内でのカーテンを印象的に使った横構図、階上と階下の攻防という縦構図と非常に斬新な銃撃シークエンスになっており、本作の中でも最もインパクトのあるシーンになっている。

物語は後半、まさに原題の通りに「放逐」された彼らの放浪が描かれるが、ここに来て明確にトーさんが今回志向したのが「西部劇」だと分かる。(もっとも前半から、音楽などでそのテイストは感じられるのだが)
マカオであってマカオでないかのような荒野を歩く彼らの姿、金塊を積んだトラックの襲撃(彼らと心を通わせることになる寡黙な警官をリッチー・レンが好演)。
そして酒瓶を回し飲みしながら最後の戦いへと赴くクライマックスまで、そのスピリッツは紛れも無く「西部劇」と同質のものだ。
西部のアウトローたち、中でもサム・ペキンパーが描いた西部末期の「時代遅れの野郎ども」のドラマと同じ匂いを、本作には感じることができる。
マカオが中国に返還され、ひとつの時代が終ろうとしている時期を作品の舞台に設定しているのは、偶然ではあるまい。
ここには喪われ行く「香港映画のロマン」への哀悼の意も籠められているのではないか、そんな気さえする。
見終わった後、放心するかのような、充足感のような不思議な感覚に囚われた。
香港映画を愛する全ての人、そして「映画」を本当に楽しみたい人に観てもらいたい一本だと思う。