秋日和

ジョナスは2000年に25才になるの秋日和のレビュー・感想・評価

3.5
ある教師が言うには、真っ直ぐに進んでいくのが「時間」で、肉を閉じ込めながら曲がっていくのが「腸詰め」らしい。題名からもはっきりと分かる通り、この映画は終始「時間」について語っているのだけど、その、確信を持った語り手の口は過去にも未来にも、そしてもちろん現在にも向けられていた。
『白い町で』の中で印象的だった時計という装置は、本作の中でもワンシーン象徴的に描かれている。そしてその使い方はあまりにも露骨で尚且つ乱暴で安直で素晴らしい。「時間」について語る歴史の授業の途中になんの前触れもなくインサートされるそのシーンは、映画を「真っ直ぐに進ませること」をどうにか阻ませているのだと思った。もしかしたらタネールを肯定的に捉えすぎているのかもしれないけど、「どれだけ豊かな寄り道をすることができるか、ということが結構映画には大切なことなんだよ」って教えてもらったみたいだ(学校の授業だって、教師のちょっとした気紛れから起こる寄り道の方が本筋より楽しかったりするものだし、なんてことも思い出した)。
映画の途中からはどれが本筋でどれが寄り道かなんて、正直どちらでもよくなってしまう。「寄り道だよ」と嘘をついて堂々と本筋を歩んでいくようなシーンさえある気がする(寄り道から生まれた新しい筋、みたいな)。その判断は難しいし、タネール自身はどちらでもいいと思っていそう。じゃあ見失ってはいけないものは?とふと考えたとき、少しばかり未来志向なタイトルをつけた映画にも拘わらず、恐らく「過去」なのではないかな、と思い当たった。たぶん、「旅行がしたい?」と女性に訪ねられた老人が「別にしたくないね、だって思い出の方が面白いだろう?」と満足げに返すシーンや「過去」の為に「現在」を残そうとするお絵描きのシーンが強烈に頭に残ったからだと思うのだけど。
いくら楽しい「寄り道」をしても、どうしようもなく人は未来へと進んでいく。それは決して避けることのできないことだ。空っぽの身体、と自分に触れながら呟く女性がいつしか腸詰めみたいに中身を獲得するみたいに、どんどん先へ先へと動いてゆく。だから、画面的快楽に乏しいこの映画に於いて、ジョナスが壁の絵に触れるショットは非常に感動的なのだと思う。なぜならそれは、「過去」が「現在」に入り込んだと言っても(機関車のように!)、「過去」が「未来に」触れたと言ってもなんらおかしくない、「時間」の蓄積によって果たされた行為だからだ。……それはちょっとズルいくらいだけれど、自分はそのズルさを決して嫌いになることができない。

※追記
でも、「真っ直ぐに進んでいくもの」を映画のなかに見つけることは随分難しい。自転車も車もそれから人も、いずれは曲がっていくのだからなぁ。規則正しく植えられた球根くらいかな?どうなんだろう。
秋日和

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