ホームワーク
1989年 イラン (日本公開は1995年)
監督 アッバス・キアロスタミ
ちょっと子供に宿題の事を聞きたくて…まだどんな内容になるか分からないんだけどね…なんて言いながら始まるドキュメンタリー。
映画撮影と知ってはしゃいだり自己主張を始める子供たち。
学校の校庭に集まって朝の集会が始まるシーン。先生が児童にかけ声をかけていく。
「我らの兵士は強い! フセインは地獄に落ちろ! イスラムは強い!」
イスラム教シーア派の学校。
イランはシーア派が多い「珍しい」土地。
世界のイスラム教の流派の8〜9割はスンニ派。
この流派の「違い」が、実は結構この作品の中でのポイントになっているように思う。
大まかに違いを挙げると「教祖の教えを後継する指導者選定の考えの違い」でしかないという。
しかし、その違いにより、生活の慣習に違いが発生し、しかもイランはその教義を教育に取り入れる政策をとったため、それに従った国民に混乱が起こっている事を国内外に報せる為の映画のようにも思う。
生活の慣習の違いとは何か
スンニ派とシーア派が分かれたのは、イスラム教の開祖ムハンマドの死後に起こった「後継者争い」だという。
後継者を、ムハンマドと血のつながりのあるアリーとその子孫から選ぶべきだ、「シーア・アリー(アリーに従え)」と考えた人たちがシーア派を作ったと言われている。
映画の中でも「アリの生誕を祝う集会」を学校の行事として校庭で歌を歌うシーンがある。
キアロスタミ監督は、その宗教儀式を途中から無音状態で撮影する。子供達はその意義さえ分からず、ただ胸を拳で打ちながら先生の唱える歌詞を復唱し、飽きて余所見をし、友達とふざけ合い、グダグダな集会の様子を見せる事で、政治家の派閥争いから成る流派の儀式を子供に押し付けることの「無意味さ」を強調する。
本来、イスラム教では神以外の肖像や偶像を崇拝する事はタブーなのが基本だが、シーア派は積極的に預言者ムハンマドの親族(シーア派の正統な後継者と考える)の肖像を掲げ、子供にも映画の様にプロパカンダを行っているという。
音を消したのも、その宗教的なタブーに対するキアロスタミなりの抵抗の意味も含まれているのだろうか?
それと同時に、シーア派の祭りを彷彿とさせるエピソードを子供達に語らせる。
シーア派には、スンニ派にはない宗教的行事が年に一度開催される。
アシュラと呼ばれるその行事では、7世紀にシーア派の指導者が、スンニ派との戦いに敗れて殉教した際の苦痛を理解するために、信者が自分の体に鞭を打つ、熱狂的なイベントらしい。
「苦痛を共有する」…痛みを知る事で相手の辛さを理解する、ということだろうか?
日本の滝行や断食などの様な「自ら敢えて苦しみを背負いクリアする事で精神的な達成感や自信をつける」という動機とも違うアイデンティティだ。
「友だちの家はどこ?」に出ていた老人が語っていた「褒美は忘れても苦痛は絶対に忘れない」という理屈は、どうやらこの「指導者の辛さを共有する」というルサンチマン的な理屈が働いているのかもしれない。
だからなのか、鞭やベルトで折檻するのは「苦痛」ではあるが「やってはいけないこと」ではなく、鞭打ちで苦痛を味わう事こそが指導者との一体化…学校や国家との一体化を促す事になるのだろうか?
ノンフィクションのドキュメンタリー形式ではあるが、カメラを3台据えて、子供の顔、子供と質問者(キアロスタミ監督)の様子、そしてカメラマンが撮影している様子を撮影する。
このアングルを差し込む事で、通常のドキュメンタリーとは違う「ドキュメンタリーのていをしているドラマ」に敢えて近づけようとしている感じがする。
このスタイルの効果は何だろうか?と考えた時、退屈しない為という単純な理由の他に、鑑賞する私達を「その場」にいる臨場感を与える効果があるかも知れない、と考える。
子供の表情から、質問者とのやりとりのアングルに変わる事で一種「引いた視点」が生まれる。
カメラマンが撮影するカメラを真正面から捉える事で自分の立ち位置を意識し、このカメラに映される子供達の気持ちを想像する。
ただ「そこにある事象の記録」としてではなく、私達は自分の立場を意識しながら画面を注視していくようになる。
インタビューに答える大人(父親)が2人登場する。1人は熱心に教育のあるべき姿を語り、もう1人は我が子の宿題を見てやれない言い訳をする。
子供からすれば、どちらの父親も子供の辛さなど「他人事」だ。
こんな大人と、その大人達が決めたシステムに板挟みになっている子供達。
その子供の中でも、すっかり怯えて友達が居ないとパニックになる子供が、コーランの唄を歌う時だけは落ち着き払って不審な挙動もピタッと止まる。
どんなに不安で恐怖から逃げ出したくても、信仰心が精神を安定させる、と言えるのか、それとも、不安感さえも抑え込める信仰教育の強制力の為せる現象なのか?
その恐ろしさは、この映画がドキュメンタリーで演技ではないという事実だ。