けんたろう

お茶漬の味のけんたろうのネタバレレビュー・内容・結末

お茶漬の味(1952年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

いや、でも、冷静に考へりや、郷に入つては郷に従へだらう。


カツトの切り替はりが矢つ張り小気味よい。二者三者、果ては四者の会話シインや、日本家屋の間や廊下をスタスタ歩くシインなどは、テンポのよさが際立つてをり、観てゐて快感さへ覚ゆ。むろん寄りと引きのバランスも亦た頗る好い。其の緊張と緩和の妙には、思はず溜息が出てしまふ。
カツトばかりではない。矢張りシインの切り替はりも快い。選び抜かれた、シイン最後のカツトとシイン最初のカツト。然うして計算し尽くされた、切り替はりのタイミング。もうはや楽しくて仕様が無い。
立ち上がつたり顔を横へ向けたりといふ動きの同期や、空間造形、会話の中などに揺蕩ふ美とユウモアに至つては、成るほど云ふまでもあるまい。が、敢へて云ふならば、「此れぞ小津!」である。美しさと可笑しさの極限のタツグが至るところに見ゆ。

さて物語りである。矢張り何時もの娘結婚物語り──かと思ふぢやないか。然し今回は違ふ(むろん全然違ふといふ訳けでは無いのだが)。今回は何んと、中年夫婦の愛情爆発物語りである。私しも一寸騙されてしまうた。何んたつて、途中までは娘結婚物語りかのやうに語らるゝんだもの(むろん全然違ふといふ訳けでは無いのだが)。
兎角、此の語り口が非常にニクい。然うして最後の娘描写に繋げるのだから、更にニクい。

人物造形も秀逸である。
特に佐分利信の力の抜けた中年像は最高と云うてよい。妻の云ふことには「うん然うだなあ」くらゐしか返せず、詰まるところ頭が上がらず、然しゆつたりと、懐ろ深く、人を受け容るゝ器を持ちたり。果たして斯ういふのが格好良い。男の格好よさとは、蓋し器であらん。要するに、割り勘なんてものはヘナチヨコである。金が無くとも女には奢れ馬鹿者め──話しが脱線してしまうた。
加へて、自分の思ひどほりに成らぬと気が済まぬ我がまゝ女、木暮実千代である。ズケズケと干渉してくる其の様には、もう参つてしまうた。其れあ、男も孤独を欲しよう。幸福な孤独を。

其んな二人が美しく番ふ模様こそ、本作である。
果たして、欠乏するから慾望す。一度失うたのちの仲直り。互ひを思ひやる。生まれも育ちも関係ない。互ひを思ひやる。其の仲睦まじき様子には、おいら何んだかウツトリしちまつた。名女優・木暮実千代の美しさもキラキラキラキラ光つてをる。
然うして辿り着く虚飾なき愛。詰まるところ、お茶漬けの味。お、おゝ! 此処で来るのかお茶漬けの味!
さて、我れらが佐分利信は斯う云うた。結局は此れなのだと。お茶漬けなのだと。嗚呼、然うなのか。こいつあ、行けねえ。おい! おゝい! 俺れにも其のお茶漬け分けてくれえい!


追伸
人間だつて犬や鶏と同んなじやうなもの。簡単、簡単、簡単主義。最高である。