晴れない空の降らない雨

ガリヴァー旅行記の晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

ガリヴァー旅行記(1939年製作の映画)
5.0
■フライシャー
 本作『ガリバー旅行記』は、アメリカ史上2番目につくられた長編アニメーション作品。マックスがデイヴと共に立ち上げたフライシャー・スタジオは、戦前はディズニーのライバルであり、ベティ・ブープやポパイといった人気キャラクターや『スーパーマン』のアニメ化で知られている。
 1930年代において彼らのカートゥーンはすさまじい人気を誇り、ロトスコープをはじめ技術面でも革新的だった。しかし今日、フライシャーが生み出したキャラクターで辛うじて一般に認知されているのは、ポパイくらいのものではなかろうか。本作にしろフライシャーにしろ、ウォルト・ディズニーとその作品よりも知名度ははるかに低い。
 結局、フライシャー兄弟はディズニーにはあった才覚を欠いていたのである。ひとつは「商才」。例えば、彼らは自分たちの作品の権利を有していなかったし、キャラクタービジネスにも消極的だった。収入の差はクオリティの差に直結した。また、「先見性」もなかった。彼らはアニメーションの可能性を見通すことができず、自分たちの技術的革新を芸術的に活用することができなかった。何よりフライシャーには、長編アニメーションに求められるタイプのストーリーやキャラクターを生み出す能力がなかった。 
 
■制作
 配給会社のパラマウントの強い要望を受け、フライシャー・スタジオが『白雪姫』に対抗して制作したのが本作。だが、ずっと短編カートゥーンをやっていた会社が、突然に長編ストーリーをつくれるわけもない。ディズニーは何年もかけて『白雪姫』を制作できる実力を大量のスタッフに身につけさせたのだった。なかには、ベティ・ブープと白雪姫の生みの親グリム・ナトウィックをはじめとする優秀なスタッフもいたものの、かき集められたアニメーターの大半は実力不足だった。そのうえ、1937年にはストライキが起きていたし、新規に雇われた西部出身者たちと東部の古参らとで対立が起きるなど、制作過程は波乱に満ちていたようである。
 そもそもフライシャー・スタジオの作風は、ディズニーとは対照的に風刺、ナンセンス、ブラックな笑いに満ちたものであり、ストーリーは行き当たりばったりだった。彼らのスタジオにはストーリー部門が長いこと置かれなかった事実も象徴的だ。
 
■作品
 完成した作品は、ディズニーの水準とは程遠い惨憺たる出来だった。
 ガリバーの船が難破して小人の国に打ち上げられてから、彼が目覚めるまでに30分かかる。それまで延々と面白くもない王様どうしの口論を聞かされる。王子と姫は『白雪姫』にならってラブソング(退屈な)をうたうだけで終盤まで台詞もなく、とにかく影が薄い。
 キャラクターには、デザインと性格づけの双方に問題がある。まず、ガリバーはサム・パーカーという実在の俳優を完全にロトスコープで写し出したものであり、気味悪いほどリアルである。そのため、他のカートゥーン調のキャラと明らかにそぐわない。もちろん、体格だけでなく性格まで子どもじみた小人たちとの対比でもあろうが、成熟した性格のせいで面白いことを1つも言わない、やらない。
 小人たちは「画一的」といってよいほどに典型的なカートゥーン・スタイルで描かれており、やはりデザイン面に魅力がない。しかし問題はやはり性格づけだろう。一見すると似ている『白雪姫』のドワーフとの違いは、結局ここなのである。眠りにつく白雪姫の前で涙するドワーフたちが、今でもフランク・トーマスの偉業の1つとされるのは、観客をして彼らに共感させたからだ。短編では、そのような感情を喚起することは求められていない。
 最後に王子と姫だが、ディズニーには及ぶべくもない。ほとんど表情がなく動きも硬い。互いを愛し合っているのはわかるが、歌うばかりで行動や台詞がほとんどない。これでは歌――それ自体お粗末な出来だが――の力も発揮できない。
 
 アニメーション自体の出来は総じて優れている。しかし、シーンの魅力は、冒頭の嵐の海がピークである。他に印象に残るのは、ガリバーの服の修繕や洗顔などを歌いながら行う小人たちのコミカルなシーンで、いかにもディズニーライクだがそれなりに想像力豊かではある。もうひとつは、ガリバーの手が片方の王様と踊るシーンくらいか。全体的にガリバーのロトスコープは、長年の経験もあってかかなりのリアリティを発揮している。
 本作の莫大な制作費、膨れあがったスタジオの維持費をまかなうため、フライシャーは本作が完成するやいなや第2の長編に着手することとなった。それが、彼らの栄光に終止符を打つこととなる。