るるびっち

ノートルダムの鐘のるるびっちのレビュー・感想・評価

ノートルダムの鐘(1996年製作の映画)
3.9
せむし男のカジモドとヒロインの結末に、高校生が怒り狂ったというツイートが載っていた(ポストという言い方嫌い)。
それは高校生が、主人公カジモドに感情移入したからだろう。
本作は哀れなせむし男に、感情移入するよう巧妙に作られている。
ところが彼は寺院から余り出られないので、主人公としては行動範囲が狭い。その辺に本作の欠陥がある。

本作辺りからディズニーは、ハリウッド映画か日本アニメの影響で強いヒロインとアクションを取り入れている。
開始早々アクションで引き込み、悪役フロローの残虐なジプシー狩りを見せる。
それはカジモドの出生に関するネタバレでもある。
観客を驚かせたければ、主人公に関する真相は後半に持ってくるだろう。
ネタバレよりも、感情移入を優先させた判断だと思う。
哀れなカジモドが世間に背中を向け引き籠るのは、見た目の劣等感以上にフロローの支配と洗脳のせいだと、観客は早々に解るのだ。
観客はフロローの支配に憤り、早くカジモドを自由にさせてあげたいと願う。それが感情移入を生む。
カジモドが可哀想だからとか、いい奴だからとかいうことではない。
誰もが満足な人生は送っていない。常に世の中の不合理に腹を立てているものだ。
だから画面上の不合理に対する義憤や、正したいという本能的な欲求が生じる。
虐げられている人物を見た時、その幸福を望む。主人公に同情するからではなく、間違いを正したいのだ。それが感情移入の仕組みである。

感情移入は完璧だが、カジモドは外出禁止。しかも禁を破って祭りに出て恥をかいたので、二度と外出したがらない。
なので展開上、二度もヒロインの方から寺院を訪ねるという構成になっている。苦肉の策である。

そのため、中盤以降の冒険に肝心のカジモドが参加できない。
ヒロインのエスメラルダと相手役のイケメンがメインになる。
この三角関係は面白い設定で、これもイケメンより不細工を選んで欲しいという観客の欲求が働く仕組みなのだ(実はフロローを入れた四角関係)。
イケメンが選ばれれば、所詮世の中は金と権力と見た目かよ! 
と、世の不公平ぶりに観客は腹を立てる。皆、不公平を感じているからだ。

しかしイケメンとヒロインは、『ロミオとジュリエット』のような敵対関係でドラマチックだ。
ヒロインとイケメンのドラマの方が盛り上がり、カジモドは脇役にされてしまう。
取り戻すためにカジモドと、イマジナリーフレンドの石像達のミュージカルシーンが差し挟まれるが、メインストーリーと関係がない。
そして二人の冒険ドラマに、カジモドも巻き込まれる形でストーリーに復帰する。
しかし、最終的にカジモドは脇役の地位を甘んじて受ける。
だからこそ、冒頭の高校生は激怒したのだ。
カジモドへの巧妙な感情移入が裏目に出た。
感情移入したキャラが、結果的に脇役扱いでは怒るだろう。
容姿差別を否定するドラマなのに、ヒロインの決断はテーマに反するものだ。

本作は恋愛ドラマではなく、毒親からの独立というテーマに持って行った方が良かったと思う。
フロローという毒親からカジモドが自立する。
それをメインにすれば、彼が脇役にはならない。
自分のために配慮してくれたことが、全て嘘で初めから裏切られていた。
フロローというのは、二面性があって面白い悪役である。
カジモドを殺そうとして育て、エスメラルダを処刑しようとしながら彼女に魅了される。
しかもその矛盾を、全て相手のせいに責任転嫁するクズ野郎。
粘着質の二面性のある毒親からの自立こそ、現代的なテーマとして見ごたえがあったと思う。子供はトラウマになり、親は引くだろうが・・・
闇ディズニー爆誕‼
日本アニメやハリウッドに毒されて、勝気なヒロインの冒険話にしたのは観易いが平凡だ。
冒頭の高校生は原作を読めば、もっと怒るだろう。
三者共に歪んで、添い遂げられない愛を描いているのだから。
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