滝和也

荒野のストレンジャーの滝和也のレビュー・感想・評価

荒野のストレンジャー(1972年製作の映画)
3.6
蜃気楼の向こうから
やって来る男。

卑怯者の街に鉄槌を
下す、その男は神か
邪神か。

Who are you?

「荒野のストレンジャー」

クリント・イーストウッドが遂に監督した西部劇。そのスタイルは余りに王道西部劇とはかけ離れ、マカロニウエスタンの流れを組むとしてもトリッキーな作品で、そのブラックかつ皮肉なスタイルは衝撃を持って観衆を容赦なく叩きのめす…。

鉱山街であるラーゴに一人の流れ者がやってくる。因縁を付けてきた男3人を瞬く間に撃ち殺し、喧嘩を吹っかけてきた女は瞬く間に犯された。その街は嘗て2つの罪を犯していた。ある男は衆人環視の中、助けもせず殺され、また無頼漢3人組はハメられ刑務所へ放り込まれた。その無頼漢が釈放されると聞いた町民達は流れ者に殺された3人を用心棒として雇っていたのだ。ラーゴの人々は、流れ者を今度は雇おうとする。何でもする、その言葉に了承した流れ者は町民に信じられない要求をし始める…。

真昼の決闘、天罰ありバージョン?

嘗てフレッド・ジンネマンが描いたゲイリー・クーパー演ずる保安官が街の人々の協力を得られず、見捨てられ、街に仕返しに帰ってくる凶悪犯と単身決闘を挑むと言う名作だ。この作品に対して、当作は強烈なオマージュであり、アンチテーゼを叩き付けるテイストになっている。

卑怯者の街…HELL

街にいる人々は、かの作品のごとく一人を除いて皆が卑怯者だ。そしてこの作品を批判した西部劇の第一人者であるジョン・ウェインが街にアメリカ人の誇り、開拓者精神がないと指摘した通りだ。自らを犠牲とせず、他者に頼り切り、矢面に立とうとしない。アメリカ人がよく言う自分の身は自分で守るが全くない。この指摘は嘗てハワード・ホークス監督がした真昼の決闘への指摘と同じく、ある意味正しい。彼がアンチテーゼとして作製したリオ・ブラボーの主演はジョン・ウェインでもある故に。

神の裁きはアンチテーゼ?オマージュ?

だが…真昼の決闘より、更に卑怯者の街の人々へイーストウッドはまるで天罰の如き、鉄槌を次々に打ち下ろす。それはアメリカ人の本質を失った人々への強烈な皮肉であると言える。ある意味でジョン・ウェインと同じく、そうでないものは良くないとしているのだ。

更にイーストウッドは真昼の決闘すら綺麗事として片付け、人間の本質は、高潔な精神のみにあらずして、より腐った部分を描き出してもいる訳だ。それ故にアンチテーゼでありながら、オマージュであると考える。イーストウッドは西部劇の先人達への尊敬を捨てず、より現代的に強烈な作品を作り込んだと言えないだろうか。(また彼は全米ライフル協会を支援していたし、共和党よりである事も追記しておく。ジョン・ウェインも然り)

まるでホラーだ!

故に流れ者が誰かは問題ではないのかも知れない。彼の存在理由は卑怯者に鉄槌を下す存在であれば良いからだ。その存在はまるでホラーであり、超常的であり、宗教的な存在にも見える。またその不可解さが天罰をより真実味がある演出になっている。

見る方によっては、イーストウッドが余りに非道に見えるかもしれないが、彼がHELLと書いたシーン、建物を焔の赤に染めた事から、悪魔とも取れる。ただ…あのラストの甘さ(あえて甘さとする)はまだ邪神か、天使のレベルだろう。

マカロニウェスタン、アメリカンニューシネマ華やかなりし時代に作製された故に、異色の西部劇として仕上がった強烈な印象を残す、ある意味でカルト作品。これは是非見てほしい作品ですね。
滝和也

滝和也